小栗忠順は何をした人か。
一言で言えば、幕府が倒れる直前の数年間に、日本の近代化の土台をまとめて作った人です。
「小栗上野介って何をした人ですか」と聞かれたときに困るのは、仕事の種類が多すぎることにあります。
造船所、株式会社、ホテル、語学校、兵器工場、軍隊、そして会社の運営ルールまで。
ここでは、その仕事を7つに整理します。
小栗忠順の功績|7つの仕事
| # | 仕事 | 何が初めてか |
|---|---|---|
| 1 | 横須賀製鉄所の建設 | 日本の近代造船・重工業の出発点 |
| 2 | 兵庫商社の設立 | 日本初の株式会社とされる |
| 3 | 築地ホテル館の建設 | 日本初の本格的ホテル |
| 4 | 横浜仏語伝習所の設立 | 日本初のフランス語学校 |
| 5 | 兵器の国産化 | 日本初の西洋式火薬工場を含む |
| 6 | 洋式軍隊の整備 | フランス軍事顧問団の招聘 |
| 7 | 近代的な経営管理の導入 | 月給制・洋式簿記・就業規則などの持ち込み |
すべて、慶応元年(1865年)から慶応4年(1868年)1月に罷免されるまでの、わずか3年ほどの間に動き出したものです。
1|横須賀製鉄所の建設
小栗の功績としていちばん知られているのが、横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)です。
文久3年(1863年)に製鉄所建設案を幕府に提出し、幕閣などから反発を受けましたが、14代将軍・徳川家茂がこれを承認しました。
11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決まります。
慶応元年(1865年)11月15日に建設が開始。 費用は4年継続で総額240万ドルでした。
首長にはフランスのレオンス・ヴェルニーを任命しました。
これは幕府公認の事業では初の事例です。
建設に必要な鉄を確保するため、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山の採掘施設の建設も計画し、武田斐三郎らを現地の見分に派遣しています。
鉄鉱石の埋蔵量は莫大で、成分も極めて良好と判明しました。
反対をどう押しきったか
横須賀製鉄所の建設をめぐっては、幕府内部の反対論が強くありました。
費用の負担が大きいためです。建設地を横須賀にすることへの反対もありました。
多くの反対を押しきれた理由は、計画の進みが速く、外部がこれを知ったときにはもう取りやめられなかったから、と説明されています。
工作機械類がすでにフランスへ発注済みだったため、止められなかったということです。
なお全施設が完成したのは1871年ですが、江戸開城の直前には第一船渠が完成し、第一・第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割・6割で、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていました。
2|日本初の株式会社「兵庫商社」
兵庫(神戸)の開港に合わせ、小栗は貿易商社の設立を幕府へ建議しました。
それが兵庫商社です。
- 出資者は大坂の商人20人
- 資本は100万両
- 頭取・肝煎り・世話役という役員構成と定款を備えていた
100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものでした。
小資本の商人が一人ずつ外国商人と取引していては、大資本の相手に利権を奪われる。
だから大資本の商社が必要だ、という認識に基づくものです。
一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗だとされています(『広辞苑』第六版)。
3|日本初の本格的ホテル「築地ホテル館」
慶応3年(1867年)8月9日、築地ホテル館の建設が始まりました。
これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので、翌年8月10日に完成しています。
日本初の本格的なホテルです。
清水喜助は小栗の指導を受けて出資者を募りましたが、その条件は「1口100両で年百両の配当」という途方もない触れ込みでした。
そのため「山師の仕事」などと評されながら、慶応3年8月に着工したと東善寺は書いています。
外国人の評価も高く、明治5年(1872年)の銀座の大火で焼失するまで営業しました。
4|日本初のフランス語学校
横須賀製鉄所の建設をきっかけに、小栗は横浜仏蘭西語伝習所(横浜仏語伝習所)を設立しました。
日本初のフランス語学校です。
駐日フランス公使レオン・ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業が行われました。
そして、この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多くいます。
造船所を作るために技術者を呼び、技術者と話せる人間を育てるために学校を作った、という順番です。
設備だけでなく、それを回す人を同時に用意しています。
5|兵器の国産化
小栗は陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬などの兵器・装備品の国産化を推進しました。
文久2年(1862年)12月に銃砲製造の責任者に任ぜられると、次のことを行っています。
- それまで韮山代官の江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化と製造不良の低減に着手
- 実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに、武田斐三郎・友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用
- ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置。日本初の西洋式火薬工場を建設
主な対象は四斤山砲とスプリングフィールド銃でした。
組織を統合して、担当者を実務家に入れ替えて、機械を輸入する。
やっていることは、現代の工場再建とほとんど同じ手順です。
6|洋式軍隊の整備
さらなる軍事力強化のため、小栗は幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画します。
慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着し、翌日から訓練が始まりました。
これと時を同じくして、フランスへ大量の兵器・装備品を発注しています。
- 大砲90門
- シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁
- 陸軍将兵用の軍服27,000人分
- 購入金額は総計72万ドル
27,000人分の軍服という数字が、この計画の規模を示しています。
7|近代的な経営管理の導入
7つ目は、建物や物ではなく仕組みです。
横須賀製鉄所の首長にレオンス・ヴェルニーを任命したことで、次のものが日本に導入されたとされています。
- 職務分掌
- 就業規則(雇用規則)
- 残業手当
- 社内教育(OJT)
- 洋式簿記
- 月給制
つまり経営学や人事労務管理の基礎が、この製鉄所を通じて日本に入ってきたということです。
造船所を作った結果として、会社の運営ルールが輸入された。
7つの中でいちばん見えにくく、いちばん長く残った功績かもしれません。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
造船所を建てたら、月給の払い方や職務の分け方まで一緒に入ってきた。あれは注文したつもりのないものだ。
ヴェルニー
工場は機械だけでは動きません。誰が何を受け持ち、いくら払い、帳簿にどう残すか。そこを決めなければ、船は一隻も出せないのです。
功績に数えられにくい仕事|通貨交渉
7つには入れませんでしたが、小栗の仕事としてもう一つ重要なのがアメリカ政府との通貨交渉です。
万延元年(1860年)の遣米使節には隠れた目的があり、それが通貨交換比率の交渉でした。
特命担当が小栗でした。
当時、日米修好通商条約に「同種同量交換の原則」が盛り込まれたことで、1ドル=一分銀3枚という交換比率になっていました。
その結果、両替を繰り返すだけで莫大な利益が出る状態になり、大量の小判が海外へ流出していました。
小栗はワシントンで、条約批准書交換後にカス国務長官へ申し出て、約半月にわたり交渉を行います。
- 天保小判、一分銀、一分金、二朱銀をフィラデルフィアの造幣局に送って分析させた
- 一分銀の35.6セントに対し、一分金は89セントに相当することを確認させた
- 一分銀は「楮幣(紙幣のような通貨)」であり重さで交換できないと説明した
- 「洋銀と一分銀の交換は禁止し、90セント=1分として一分金との交換を行う」ことを主張した
アメリカ側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至りませんでした。
つまりこの交渉は成果として実らなかった仕事です。
ただし、日本側の主張と分析の記録が残ったこと、そして分析実検の結果として1両=3ドル60セントの為替レートが決まったことは事実です。
ヴェルニー
ワシントンでの談判は、まとまらなかったと聞きました。
小栗忠順
合意には至らなんだ。ただ、一分銀と一分金を造幣局で分析させ、こちらの言い分と数字は記録に残した。実らなかった交渉だが、何も残らなかったわけではない。
当時のアメリカの新聞は、日本人が10進法の天秤ばかりや算盤で素早く計算したことを書き、小栗をタフ・ネゴシエイターとして評価したと伝えられています。
小栗忠順は天才だったのか
「小栗忠順 天才」という調べ方をする人もいます。
同時代の人が小栗の能力をどう見ていたかを、記録から拾ってみます。
14歳のときの評
婚家となる林田藩の藩士が、こう書き残しています。
小栗上野介は、年僅かに十四歳のころであったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待つ堂々としてすでに巨人の風あり
14歳で藩主と一問一答をやり、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てながら応答したため、人は皆その高慢に驚きながら、後世どんな人物になるだろうと噂しあった、と続きます。
武芸と記憶力
小栗は文武の両方で記録が残っています。
- 剣術は島田虎之助に師事し、のち藤川整斎の門下となって直心影流の免許皆伝
- 砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学を窪田清音に師事
- 鉄砲や弓の名手で、砲術・弓術の上覧でそれぞれ皆中し、徳川家慶から褒美を賜っている
同じ主戦派だった大鳥圭介の評はこうです。
小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。(略)記憶力は非常に強い人であった
注目したいのは「洋書を読みこなすまではいたらず」という部分です。
小栗は語学の人ではありませんでした。 人から聞いた話を覚えて組み立てるタイプです。
だから、フランス語ができる栗本鋤雲との関係が決定的に重要でした。
同時代・後世の評価
小栗の功績が「近代化の土台」と言われるようになったのは、明治政府中心の歴史観が薄まってからです。
| 人物 | 評価 |
|---|---|
| 大隈重信 | 「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」 |
| 東郷平八郎 | 「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」 |
| 司馬遼太郎 | 「明治国家の父の一人」 |
| 大村益次郎 | 「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」 |
| 西郷隆盛 | 「偉大なる権謀家」 |
| 福沢諭吉 | 「鞠躬尽瘁の人」 |
東郷平八郎の言葉は、明治45年(1912年)7月に自宅へ小栗貞雄と息子の又一を招いた際のものです。
このとき東郷は礼を述べた後、「仁義禮智信」としたためた書を又一に贈っています。
三井組を築いた三野村利左衛門の評も残っています。
もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ
三野村はかつて小栗家で中間を務めた人物で、三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそでした。
敵からの評価もある
一方、恭順を選んだ勝海舟の評価は二面的です。
眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし
小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、(略)しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった
能力は認めながら、視野の狭さを惜しむ、という言い方です。
この2人の対立は、そのまま2027年の大河ドラマの軸にもなります。
功績が長く知られなかった理由
これだけの仕事をしながら、小栗の名前が長く一般に知られてこなかった理由は単純です。
小栗は慶応4年(1868年)1月15日に罷免され、閏4月6日に取り調べもされぬまま斬首されました。享年42。
作った本人が明治を生きていないため、事業の記録が本人の名前で継承されませんでした。
横須賀製鉄所も富岡製糸場も、明治政府の事業として語られていきます。
評価が見直されるのは、明治政府中心の歴史観が薄まってからのことでした。
よくある質問
小栗忠順は何をした人ですか
幕末の幕臣で、勘定奉行・外国奉行・軍艦奉行を務めた人です。
横須賀製鉄所の建設、日本初の株式会社とされる兵庫商社の設立、日本初の本格ホテル築地ホテル館、日本初のフランス語学校、兵器の国産化、洋式軍隊の整備などを短期間にまとめて手がけました。
小栗上野介の功績を一つ挙げるなら何ですか
横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)の建設です。
日本の近代造船・重工業の出発点になり、東郷平八郎は日本海海戦の勝因として小栗の名を挙げています。
小栗忠順の功績はどれくらいの期間で成し遂げられたのですか
主要な事業は慶応元年(1865年)から慶応4年(1868年)1月の罷免までの、3年ほどの間に動き出しています。
小栗忠順はなぜ「明治国家の父の一人」と呼ばれるのですか
司馬遼太郎が『明治という国家』でそう記しました。
大隈重信も「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と述べており、明治の政策の多くが小栗の構想と重なることを指しています。
小栗忠順は天才だったのですか
同時代人は、精力・計略・記憶力を高く評価しています。
ただし大鳥圭介は「洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた」と書いており、語学の人ではありませんでした。
勝海舟も能力は認めつつ「度量の狭かったのは惜しかった」と述べています。
生涯の流れを追いたい場合と、同じ時代の人物を確認したい場合は、それぞれのページがあります。
築地ホテル館の出資条件は東善寺「日本最初の株式会社 兵庫商社・江戸の築地ホテル・小布施の船会社」をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。東善寺は小栗を顕彰する立場のため、評価にあたる部分は出所を明示しています。