慶応4年(1868年)閏4月6日の朝、小栗忠順は烏川の水沼河原で斬首されました。
捕らえられたのは、その2日前です。

取り調べは、一度も行われていません。

さらされた首のわきには「朝廷に対し大逆を企て…」と書いた高札が立てられました。
ところが、その大逆が具体的に何だったのかは、当時も今も示されていません。

このページでは、小栗忠順がなぜ殺されたのか、挙げられている理由を一つずつ確かめながら整理します。

処刑の日付と場所

日付 出来事
慶応4年閏4月4日 東善寺で捕縛される
慶応4年閏4月6日 朝4ツ半(午前11時) 烏川の水沼河原で斬首
慶応4年閏4月7日 養子・小栗忠道が高崎城下で斬首(享年21)

斬首の場所は、現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先です。
捕らえたのは、東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎と原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩の兵でした。

小栗忠順の処刑は、家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と一緒に行われています。
享年42でした。文政10年6月23日(1827年7月16日)生まれ、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)没です。

挙げられている逮捕理由と、その裏づけ

逮捕の理由としては、おもに次の3つが挙げられます。

挙げられている理由 裏づけ
大砲2門・小銃20挺を所持していた 所持そのものは記録があるが、戦備のためではないとされる
農兵を訓練していた 当時の村人の記録に、訓練していた様子は見られない
幕府の大金を隠した(徳川埋蔵金説) 裏づけとなる根拠は現在まで出てきていない

このうち、確実に言えるのは武器の所持だけです。
そして所持していた数は、大砲2門と小銃20挺でした。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗忠順

小栗忠順

大砲二門と小銃二十挺。これで朝廷に大逆を企てた、ということになった。

小栗道子

小栗道子

権田では水路を直し、塾を開いておいででした。村の方々の記録にも、兵を集めて調練しておられた様子は残っておりません。

当時の村人の記録によれば、権田村での小栗は水路を整備したり塾を開いたりして静かに暮らしており、農兵の訓練をしていた様子は見られません。

埋蔵金説については、噂が処刑を早めたとする見方があります。
建設費240万ドルを投じた横須賀製鉄所の財源を、隠した金と結びつける発想でした。

→ 小栗忠順と徳川埋蔵金の関係|噂が処刑を早めた理由

嫌疑はどう積み重なったのか

理由が薄いのに斬られたのは、いくつかの出来事が重なったからです。
日付を追うと見えてきます。

1月|徹底抗戦を主張して退けられる

慶応3年10月14日(1867年11月9日)に徳川慶喜が大政奉還。
翌慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦いが起き、戊辰戦争が始まります。

慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定で、小栗は榎本武揚・大鳥圭介・水野忠徳らとともに徹底抗戦を主張しました。

このとき小栗が出したのは、次のような挟撃策です。

薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾へ突入させて艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させ、孤立して補給の途絶えた薩長軍を殲滅する

後にこの作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れたという逸話が残ります。

実際、この時点で旧幕府側は鳥羽・伏見に参加していない予備兵力を多数持っていました。
しかし慶喜はこの作戦を退け、勝海舟の恭順論を採ります。

慶喜が却下した理由については、当時の慶喜があくまで「武備恭順」の姿勢で、家臣団が小栗の意見に引きずられて恭順の域を逸脱するのを防ぐためだった、と推測されています。
朝廷に対して恭順の意を見せる必要がある以上、明確に敵対の意思を示す小栗の作戦は受け入れられませんでした。

なお、幕臣のほとんどは主戦論を唱えており、小栗の案以外にも「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で官軍を食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など議論百出の状態だったと言われます。

1月15日|罷免され、権田村へ

1月15日、小栗は江戸城で御役御免および勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されました。
同月28日、上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書を提出します。

このとき旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ、アメリカへの亡命を勧められましたが、丁重に断りました。
2月末には渋沢成一郎から彰義隊の隊長に推されますが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師であり、大義名分の無い戦いはしない」としてこれも拒んでいます。

つまり小栗は、戦う機会を2度断っています。

小栗忠順

小栗忠順

彰義隊の隊長にと請われたが、受けなかった。慶喜公に薩長と戦う気がない以上、名分の無い戦になる。

小栗道子

小栗道子

三野村さまの千両箱も、亡命のお勧めもお断りになりました。戦う機会を二度お断りになった方が、大逆を企てたと札に書かれたのです。

3月4日|世直し勢を撃退したことが噂になる

2月28日に江戸を発ち、桶川・深谷・高崎と宿を重ねて、3月1日に権田村の東善寺へ到着しました。

3月4日、2千人とも言われる世直し勢が寺を包囲します。
戦術に優る小栗は鉄砲などでこれを退けました。

これが大きな反響を呼び、「小栗は多数の武器を所有している」という噂になって世間に広まります。

3月8日|出迎えに行かなかった

3月8日、総督府を出迎えるため、高崎藩主と小幡藩主は常磐町(高崎市)まで出向きました。

小栗は石上寺の本営に出頭せず、勤王の意を表明していません。
これが反逆の嫌疑を受けることになりました。

主戦論を唱えた前歴、武器を持っているという噂、そして恭順の意思を示さなかったこと。
この3つが重なったところで捕縛されています。

取り調べは行われなかった

閏4月4日に捕らえられ、閏4月6日に斬られるまでのあいだ、取り調べは行われていません。

上野国狩宿関所の役人・片山保左衛門は、慶応4年閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」(小栗上野介にどのようなことがあったのだろうか)と記しています。
近くにいた役人にも、理由が伝わっていなかったことがわかります。

また、斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったものの、現地に沙汰書が届いたのは翌日だった、という説もあります。

小栗忠順の最期

小栗忠順の最期の様子は、大勢の村人が見守るなかでのことでした。

家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭したと伝えられます。

原保太郎が「何か言い残すことはないか」と聞くと、小栗はにっこり笑ってこう頼みました。

私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい

処刑の順序は、荒川・大井・渡辺・小栗の順だったといいます。

逃がされた3人——母のくに、身重の妻・道子、養女の鉞子——は、権田村の村人に護衛されて会津へ落ち延び、生き延びました。

誰が斬ったのか

原保太郎は後に「小栗は自分が斬った」と語っていました。

ただし地元の研究者によれば、安中藩の徒目付・浅田五郎作が斬ったという説もあります。
ここは資料によって割れており、断定できません。

首はどこへ行ったのか

斬られた主従の首は、青竹に刺して道端の土手にさらされました。

その後、小栗の首はすぐ高崎へ送られ、翌閏4月7日に高崎城内で斬首された養子・忠道の首とともに、館林へ移っていた東山道鎮撫総督府へ届けられます。
これは、東山道総督府が発行した『太政官日誌』二十五号にある高崎藩からの届書きが裏づけています。

日付 首の行方
閏4月6日 水沼河原でさらされる
閏4月7日 高崎を経て館林の総督府へ
閏4月10日 館林城内で東山道総督・岩倉具定の首実検
同日以降 泰安寺へ下げ渡されるが墓地がなく、法輪寺の墓地へ埋葬
明治2年(1869年)春 権田村の村人が掘り出し、東善寺へ運ぶ

明治2年の春、道子夫人らを送り届けて権田村へ戻った中島三左衛門は、殿様の首が胴体と離れたままであることを憂えました。
かつて小栗が冗談交じりに「自分もいつか井伊大老のように殺されるかもしれないが、死んでも首と胴体は一緒にいたいものだ」と語ったのを覚えていたからです。

三左衛門は村人の塚越房吉とともに館林へ向かい、小栗家の旧領地・高橋村(現在の栃木県佐野市高橋町)の名主・人見惣兵衛に協力を頼みます。
人見は伯父にあたる館林の渡辺忠七の協力を得て、「殿様の一周忌が近いので墓を建てたい」という触れ込みで場所を確認しました。

一度は失敗し、二度目に成功して権田村へ持ち帰り、東善寺裏山の胴体を埋めた墓へ葬っています。
養子・忠道の首は、胴体を引き取っていた下斎田村の名主に渡され、下斎田の墓地であわせて葬られました。

関係した村人は、これをひそかに「お首級(おくび)迎え」と呼んだと伝えられます。

なお『館林市誌・歴史編』(1969年刊)にも、明治2年に法輪寺境内の小栗父子の首級が盗まれた顛末と、関わった渡辺忠七が取り調べを受けたことが記録されています。

館林の法輪寺には説明看板がある

首が埋められた法輪寺は、館林市の朝日町にあります。
館林市の公式ページによれば、市は令和6年(2024年)12月に文化財の計画を策定し、その一環として、法輪寺のご厚意で説明看板が新しく設けられました。
館林市の同じページにも、首級が館林で預けられたのち法輪寺の墓所に埋められ、のちに権田村の東善寺裏山へ改葬されたことが書かれています。

拝観できる時間や見学のしかたは、市のページに書かれていません。
お寺の事情を確かめてから訪ねてください。

「罪なくして此所に斬らる」

斬首された水沼の河原には、慰霊碑が建てられています。

碑文に刻まれているのは、次の言葉です。

偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる

高崎市はこの碑を「小栗上野介の終焉の地」として観光サイトで案内しています。

小栗上野介がなぜ殺されたのかという問いに、当時の記録が答えを残していないこと。
その空白を、地元の人たちがこの碑文で埋めたことになります。

よくある質問

小栗忠順は何歳で亡くなりましたか

享年42です。
文政10年6月23日(1827年7月16日)に江戸駿河台の屋敷で生まれ、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に斬首されました。

小栗忠順が斬られた場所はどこですか

烏川の水沼河原、現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先です。
現地には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれた慰霊碑が建っています。

裁判は行われなかったのですか

行われていません。
捕縛から2日後に、取り調べもされないまま斬首されました。

罪状は何だったのですか

さらされた首のわきには「朝廷に対し大逆を企て…」という高札が立てられました。
具体的な内容は示されておらず、逮捕理由として挙げられる武器の所持・農兵の訓練・埋蔵金のいずれも、裏づけとなる根拠は出ていません。

小栗忠順の家族はどうなりましたか

母・妻・養女の3人は、斬首の直前に権田村の村人に護衛されて会津へ逃れ、生き延びました。
妻の道子は逃避行の途中も身重で、会津で娘の国子を出産しています。
養子の忠道は、小栗の翌日に高崎城下で斬首されました。

首はどうなったのですか

館林へ送られて首実検を受けたあと、法輪寺の墓地に埋められました。
明治2年の春に権田村の村人が掘り出し、東善寺裏山の墓で胴体と一緒に葬っています。


小栗の生涯全体と、彼を扱った本は次のページにまとめています。

→ 幕末の人物|『逆賊の幕臣』に登場する人たちを整理する

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ


慰霊碑と忠道の墓は高崎市「小栗上野介の関連史跡」、首の行方と『太政官日誌』の届書きは東善寺「お首級迎え」をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。
法輪寺の説明看板は館林市の公式ページによります(2026年10月7日に見直し)。

情報の誤りを報告