坂本龍馬(さかもと りょうま)は、幕末の土佐藩の郷士で、脱藩したあと志士として動いた人物です。

貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)をつくり、薩長同盟の成立に関わりました。
そして大政奉還が成立した直後、京都の近江屋で暗殺されています。

小栗忠順とは立場が正反対でした。
龍馬は倒幕側で動いて幕府側に斬られ、小栗忠順は幕府側で最後まで抗戦を主張して新政府軍に斬られています。
このページでは、龍馬が何をした人なのかを年表で追いながら、二人がどこで交わっていたのかまで見ていきます。

坂本龍馬とは|3行でまとめると

  • 土佐藩の郷士(下級武士)の家に生まれ、数え28歳で脱藩した浪人
  • 勝海舟の弟子になり、海運の会社と政治組織を兼ねた亀山社中を長崎につくった
  • 薩長同盟の成立に関わり、大政奉還の翌月に京都で暗殺された。享年33

明治政府で高い地位についたわけでも、藩を動かす立場にいたわけでもありません。
組織の外側にいた人が、藩と藩をつないだ——というところが、この人物の特異な点です。

名前と呼び名

  • 諱(本名): 直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)
  • 通称: 龍馬
  • 変名: 才谷梅太郎(さいたに うめたろう)など

脱藩して幕府に追われる立場だったため、手紙では変名をいくつも使い分けています。

生まれは天保6年11月15日(1836年1月3日)、亡くなったのは慶応3年11月15日(1867年12月10日)。
暗殺された日は、旧暦でいえば自分の誕生日と同じ日付でした。

生涯年表

年 出来事
天保6年(1836年1月) 土佐国土佐郡上街本町(現・高知県高知市上町)に生まれる
嘉永元年(1848年) 日根野弁治の道場に入門し、小栗流和兵法を学ぶ
嘉永6年(1853年) 江戸の千葉定吉道場へ入門。12月に佐久間象山の私塾へ
安政元年(1854年) 土佐へ帰国。絵師・河田小龍から海外の事情を学ぶ
安政5年(1858年) 千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授される
文久元年(1861年) 土佐勤王党に加盟
文久2年(1862年) 3月24日に脱藩。12月に勝海舟と面会し弟子になる
文久3年(1863年) 勝の尽力で脱藩を赦免される。海軍塾の塾頭を務める
元治元年(1864年) 神戸海軍操練所が創設。11月に勝が罷免され、塾生は薩摩藩邸へ
慶応元年(1865年) 神戸海軍操練所が廃止。長崎で亀山社中を結成
慶応2年(1866年) 1月22日に薩長同盟。翌23日に寺田屋で襲われ負傷
慶応3年(1867年) 亀山社中を海援隊へ改称。いろは丸事件。11月15日に暗殺

なお、14歳で入門した「小栗流」は、元和2年(1616年)に小栗仁右衛門正信が開き、土佐に伝わっていた和兵法の流派です。
主人公の小栗忠順と名字は同じですが、流祖は別の人物です。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

坂本龍馬

坂本龍馬

十四で入門したのは小栗流という和兵法です。名字は同じですが、流祖は小栗仁右衛門正信という別の人でした。

小栗忠順

小栗忠順

わしの家とは関わりがない。名が同じというだけで結び付けられては、どちらも困る。

土佐の郷士から脱藩まで

土佐藩には、上士と郷士という身分の差がありました。
坂本家は郷士、つまり下の側です。

文久元年(1861年)に土佐で井口村刃傷事件が起きると、上士と郷士の対立は決定的になります。
同じ年、龍馬は武市半平太が結成した土佐勤王党に加わりました。

そして文久2年(1862年)3月24日、沢村惣之丞とともに脱藩します。
藩を捨てるということは、身分も後ろ盾も失うということでした。

勝海舟の弟子になった経緯

脱藩した年の12月、龍馬は江戸で勝海舟に会い、その弟子になります。

「龍馬が勝を斬りに行って、逆に弟子になった」という逸話は広く知られていますが、確かな裏づけはありません。
勝の日記に龍馬の名が出るのは文久2年12月29日付が最初で、それ以前に交流があったかどうかは分かっていないためです。

翌年には勝の口ききで脱藩が赦され、神戸の海軍塾で塾頭を務めました。
浪人の身から、幕府の海軍づくりの現場に入ったことになります。

嘉永6年に入った佐久間象山の私塾も、勝とつながりのある場所でした。
象山の妻は勝海舟の妹・順子です。
ただし象山は翌年、吉田松陰のアメリカ軍艦密航事件に関係したとして投獄されており、龍馬が師事した期間はごく短いものでした。

→ 勝海舟とは|幕末の海軍を作った男の生涯

亀山社中と海援隊

元治元年(1864年)11月、勝海舟が軍艦奉行を罷免されます。
後ろ盾を失った塾生たちは、薩摩藩に保護されました。

慶応元年(1865年)、龍馬は薩摩藩の援助を受けて長崎に亀山社中をつくります。
船を持ち、荷を運び、その運賃で仲間の生活費をまかなう——貿易会社と政治組織を兼ねた組織でした。

慶応3年(1867年)にはこれを土佐藩の外郭組織として海援隊と改称します。
同じ年、海援隊の運用船いろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没したいろは丸事件では、御三家である紀州藩から8万3526両198文の賠償を認めさせました。

浪人あがりの組織が、御三家を相手に交渉で勝ったということです。

薩長同盟

禁門の変と下関戦争で敗れた長州藩は、幕府から朝敵とされ、追い詰められていました。
一方の薩摩藩は幕府側に立っていて、両藩は敵同士です。

龍馬は中岡慎太郎らとともに、この二藩を結ぶ交渉を進めます。
一度目の下関での会談は失敗しましたが、長崎のグラバー商会から薩摩藩名義で銃器弾薬を買い、それを長州へ回すという実務で信頼を積み上げました。

慶応2年(1866年)1月22日、京都で桂小五郎と西郷隆盛、小松帯刀が会談し、薩長同盟が結ばれます。
翌23日、龍馬は伏見の寺田屋で幕吏に襲われ、左手に深い傷を負いました(寺田屋遭難)。

治療のため、龍馬は妻のお龍とともに薩摩へ渡り、霧島の温泉などで83日を過ごしています。
この旅は日本で最初の新婚旅行とされることがありますが、小松帯刀のほうが先だという異論もあります。

勝海舟は、龍馬が西郷隆盛を評した言葉を書き残しています。
「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」——鐘にたとえた人物評でした。

大政奉還と「船中八策」の扱い

慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を行います。
その前の6月、龍馬は土佐藩の後藤象二郎とともに新しい国のかたちを箇条書きにした、とされます。

これが歴史小説などで「船中八策」と呼ばれてきたものです。
議会の開設、官制改革、条約改正、憲法制定、海軍と陸軍の創設、通貨政策——といった内容が並びます。

ただし、ここは慎重に扱う必要があります。

  • 龍馬が書いた船中八策の原本は見つかっていません
  • 引用元によって内容に食い違いがあります
  • 「船中八策」という呼び名自体、大正時代に考案されたとする説が有力です
  • 近年は、これを創作とみる研究者もいます

一方、同じ年の11月に書かれた「新政府綱領八策」のほうは自筆本が実在します。
船中八策は、この新政府綱領八策をもとに後から遡って作られたものだ、と主張する研究者もいます。

「龍馬が新国家の設計図を描いた」という言い方はよく見かけますが、史料で確かめられるのは新政府綱領八策のほうです。

近江屋事件|暗殺されたのは誰の手か

慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜、龍馬は京都河原町の醤油商・近江屋の二階にいました。
訪ねてきていたのは陸援隊の中岡慎太郎です。

午後8時ごろ、十津川郷士を名乗る男たちが来訪します。
取り次いだ従僕の藤吉が斬られ、そのまま部屋へ押し入られました。

龍馬たちは刀を帯びておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、ほとんど即死に近い形で殺されています。
享年33(満31歳)でした。

実行犯については、明治3年(1870年)に箱館戦争で捕虜になった元京都見廻組の今井信郎が、与頭の佐々木只三郎とその部下6人で龍馬を殺したと供述しました。
現在はこの見廻組犯人説が定説です。

ただし薩摩藩黒幕説など、いくつもの異説が今も語られています。

新選組と坂本龍馬の関係

「新選組が龍馬を斬った」という話を見かけますが、これは当初疑われた説であって、いまの定説ではありません。

事件直後、新選組の関与が強く疑われたのは事実です。
海援隊士たちはいろは丸事件の報復も疑い、紀州藩の三浦休太郎を襲撃し、護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっています(天満屋事件)。

また、新選組にいた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕らえられ、拷問の末に自分がやったと自白しましたが、のちに撤回しました。

慶応4年(1868年)に新選組局長の近藤勇が斬首されたとき、強く主張したのは土佐藩士の谷干城です。
ただし谷は近藤が「有志の徒」を殺したとは言っていても、龍馬の名を出していません。

新選組と見廻組はどちらも幕府側ですが、性格が違います。
見廻組は旗本・御家人で構成された正規の組織、新選組は町人・農民出身の浪士が多い会津藩預かりの非正規組織でした。

→ 新選組とは|幕府側から見た隊士たちの役割

小栗忠順との関係

龍馬と小栗忠順が直接会ったという記録はありません。
それでも、二人は同じ時代の同じ問題に、逆の側から向き合っていました。

比べる点 坂本龍馬 小栗忠順
立場 土佐脱藩の浪人・倒幕側 幕臣・幕府側
やったこと 薩長同盟、海運の会社づくり 横須賀製鉄所、日本初の株式会社
最期 慶応3年、京都見廻組に斬られたとされる 慶応4年、新政府軍に斬られた
斬った側 幕府側の組織 新政府

幕末は、どちらの側にいても斬られる時代でした。

二人をつなぐ位置にいたのが勝海舟です。
龍馬は勝の弟子であり、小栗は勝と同じ幕臣でありながら、抗戦か恭順かで真っ向から対立しました。

もうひとつ、龍馬が安政元年に海外の事情を学んだ相手である絵師・河田小龍は、漂流してアメリカへ渡ったジョン万次郎から話を聴き取って『漂巽紀略』をまとめた人物です。
そのジョン万次郎は、2028年の大河ドラマの主人公になります。

→ 小栗忠順とは何をした人か|生涯をわかりやすく解説

大河ドラマのなかの坂本龍馬

坂本龍馬が主人公になった大河ドラマは2作あります。

放送年 作品 主演
1968年 竜馬がゆく 北大路欣也
2010年 龍馬伝 福山雅治

『龍馬伝』は岩崎弥太郎の視点を通して龍馬を描いた作品で、福山雅治さんが主演、香川照之さん、真木よう子さんらが出演しました。
『竜馬がゆく』は司馬遼太郎の同名小説が原作です。

→ 幕末が舞台の大河ドラマ一覧|時代順に見どころを紹介

よくある質問

坂本龍馬は何をした人ですか

土佐藩を脱藩した浪人で、長崎で貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)をつくり、薩長同盟の成立に関わりました。

なぜ暗殺されたのですか

理由は分かっていません。
実行犯は京都見廻組とする説が定説ですが、動機については今も諸説あります。

新選組に殺されたのですか

事件直後は疑われましたが、いまの定説は京都見廻組です。
元見廻組の今井信郎が明治3年に供述したのが根拠になっています。

船中八策は本当にあったのですか

原本は見つかっておらず、創作とみる研究者もいます。
自筆本が残っているのは、同じ年の11月に書かれた「新政府綱領八策」のほうです。

勝海舟とはどういう関係ですか

弟子です。文久2年12月に面会して弟子になり、翌年には勝の口ききで脱藩を赦されました。

何歳で亡くなりましたか

享年33(満31歳)です。旧暦の誕生日と同じ日に亡くなりました。


もっと深く知りたい場合は、幕末の人物をまとめた事典と、書籍のページがあります。

→ 幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

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