ヴェルニー(フランソワ・レオンス・ヴェルニー、1837年12月2日 - 1908年5月2日)は、横須賀製鉄所の建設を指揮したフランスの技術者です。

慶応元年(1865年)から明治9年(1876年)まで12年間日本にいて、造船所とドックのほか、灯台や水道の建設も手がけました。
小栗忠順が構想した近代化を、現場で形にした人物です。

横須賀のヴェルニー公園には、小栗上野介忠順と並んで胸像が立っています。

ヴェルニーとは|3行でまとめると

  • エコール・ポリテクニーク出身の海軍技術者。日本へ来る前は中国・寧波で砲艦を建造していた
  • 1865年に来日し、横須賀製鉄所の首長として40数名のフランス人技術者を統率した
  • 幕府が倒れても現場を離れなかった。明治政府に引き継がれた工事をそのまま続け、1876年に帰国した

→ 幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々

名前の表記は資料によって違う

「レオン・ヴェルニー」「ウエルニー」と誤って表記されることが多い人物です。

正しくはフランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)で、「レオンス」が名にあたります。

横須賀市が1977年に作った「横須賀風物百選」の説明板は「レオン・ウェルニー」と書いています。
昔の資料や石碑で違う表記を見かけても、同じ人物だと考えて差し支えありません。

なお、フランス公使のレオン・ロッシュは別人です。名前が似ているので混同されやすいところです。

年表

年 出来事
1837年 フランス・アルデシュ県オーブナに生まれる。製紙工場を営む家の5男2女の三男
1853年 16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学
1856年 エコール・ポリテクニークに合格(115名中64位)
1858年 同校を卒業し、海軍造船工学学校へ。海軍技術者となる
1860年 ブレスト造兵廠に着任。造船・製鉄・艦船修理に従事
1862年 中国・寧波へ。造船所とドックを建設し副領事に任命される
1864年 寧波で4隻の砲艦が竣工。翌年レジオンドヌール勲章を受章
1865年 1月に来日。2月11日に横須賀製鉄所の起立原案を提出
1866年 6月8日に再来日し、建設工事の統率にあたる
1867年 上海でモンモラン子爵の娘マリーと結婚
1868年 戊辰戦争。退去指示を断って横須賀にとどまる。観音埼灯台を建設
1871年 横須賀製鉄所が横須賀造船所へ改称。1号ドックが完成
1876年 3月3日に解嘱、3月12日に家族とともに帰国
1908年 故郷オーブナの自宅で肺炎により死去。享年70

日本へ来る前|中国で造船所を建てていた

ヴェルニーは1858年にエコール・ポリテクニークを卒業し、海軍造船工学学校を経て海軍技術者になりました。
1860年にブレスト造兵廠へ着任し、造船・製鉄・艦船修理と幅広い実務を経験しています。

転機は中国でした。

北京条約のあとも清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波に造船所とドックを建設し、小型の砲艦を造ることを決めます。
その建造監督にヴェルニーが選ばれ、1862年9月にマルセイユを発ちました。

寧波では副領事にも任命され、造船所・倉庫・ドックを建設。1864年に4隻の砲艦がすべて竣工しました。
この功績で、翌年レジオンドヌール勲章を受けています。

「ゼロから造船所を立ち上げた実績のある技術者」として、日本に呼ばれることになります。

なぜフランス人技師だったのか

横須賀製鉄所の建設にフランスが関わったのは、消去法の結果でもありました。

横須賀市の説明によれば、小栗らは当初アメリカに協力を要請しています。
しかし当時のアメリカは南北戦争のさなかで、断られました。イギリス・ロシア・オランダにもそれぞれ事情があり、技術協力を受ける相手を探すのは難航します。

そこへフランス側から近づいてきます。

フランスは国内の製糸業を支えていたカイコが伝染病にかかって産業が壊滅状態にあり、生糸と、病気に強いカイコを海外に求めていました。
そのため駐日公使ロッシュが積極的に幕府へ接近します。

このとき幕府とフランスの仲立ちをしたのが、栗本鋤雲とフランス人のカションでした。
栗本は小栗の竹馬の友、カションは栗本が箱館にいた時代からの知り合いです。

小栗・ロッシュ・栗本・カションの4人で面談が行われ、1か月もたたないうちに建設地が横須賀に決まりました。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗忠順

小栗忠順

はじめはアメリカへ頼んだのだ。南北の戦の最中で断られ、イギリスもロシアもオランダもそれぞれ事情があった。

ヴェルニー

ヴェルニー

フランスの側にも事情がありました。国内の蚕が病で壊滅しかけていて、生糸と丈夫な蚕を海の外に求めていたのです。互いの都合が合ったところで、私に声がかかりました。

技術的な役割は、当時中国にいたヴェルニーに任されます。
提督バンジャマン・ジョレスの要請で、1865年1月に来日しました。

→ 栗本鋤雲とは|小栗忠順の親友だった幕臣の生涯

横須賀での12年

計画を作った

来日したヴェルニーは、江戸に近く波の影響を受けにくい入り江であること、艦船の停泊に十分な広さと深さがあることから横須賀を良しとしました。
フランスの軍港ツーロン港に似ているとも語っています。

中国から持参した建設資料と見積りをもとに、ロッシュらと起立(建設)原案を作成し、1865年2月11日に提出しました。

  • 期間: 4年
  • 内容: 製鉄所1か所、艦船の修理所2か所、造船所3か所、武器庫および宿舎など
  • 予算: 総額240万ドル

2月24日に水野忠誠と酒井忠毗が約定書に連署して、建設が正式に決まります。

その後いったんフランスへ帰国して技術者と資材を手配し、1866年6月8日に横浜へ戻りました。

現場を統率した

横須賀では、フランス人が驚くほどの速さで造成が進みました。入り江が埋め立てられ、山が切り崩されます。

ヴェルニーは責任者として40数名のフランス人技術者に指示を出しました。

月給は833メキシコドル、年俸にすると1万メキシコドルを超える高給でした。
この給与は、のちに明治政府にとって負担となり、解任交渉の理由になります。

幕府が倒れても現場を離れなかった

1868年に戊辰戦争が起き、3月には新政府軍が箱根まで進出しました。
浅野氏祐と川勝広運から、フランス人に横浜居留地へ退去するよう指示が出ます。

しかしヴェルニーはこう述べて、通報艇を待機させながら横須賀にとどまりました。

政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない

4月には神奈川裁判所総督の東久世通禧と副総督の鍋島直大によって製鉄所が接収されます。
この時点で使った経費は150万8,400ドル、さらに83万ドル以上が必要でした。

予算難の新政府はお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討しましたが、フランス公使ウートレとヴェルニーの反対によって建設の継続が決まります。

幕府の事業が明治政府の事業として続いたのは、この場面があったからです。

→ 横須賀製鉄所とは|建設費・目的・その後をわかりやすく

造船所以外の仕事

ヴェルニーの仕事は艦船だけではありませんでした。

  • 灯台: 観音埼灯台・野島埼灯台・品川灯台・城ヶ島灯台の建設に関わった。1868年に灯台用機械がフランスから届き、フロランに命じて観音埼灯台を建設した
  • 走水の水道: 横須賀の水道建設
  • 煉瓦の製造: 横須賀製鉄所で煉瓦を焼いた。刻印の入った煉瓦が残っている
  • 技術学校: 製鉄所内に日本人技術者を養成する学校を設けた

灯台のうち現存するのは(旧)品川灯台だけです。
ほかは関東大震災などで壊れ、ヴェルニーが関わった当時の姿は失われました。品川灯台は博物館明治村に移築されて残っています。

造った船

ヴェルニーの指導で建造された艦としては、1872年進水の蒼龍、1875年進水の清輝があります。
横須賀での艦船建造は順調に進みました。

1871年には横須賀製鉄所が横須賀造船所へ、横浜製鉄所が横浜造船所へ改称され、同年に工部少丞の肥田浜五郎が造船兼製作頭として赴任しています。

同じ年、明治4年(1871年)2月に石造りの1号ドライドックが完成しました。
フランスのメートル法で設計されたものを、日本人の工人が尺貫法に換算して施工したものです。150年以上たったいまも米海軍横須賀基地内で使われています。

帰国まで

ヴェルニーの高給は新政府にとって重荷でした。
1873年にフランス公使サン=カンタン伯爵と交渉して解任が受諾され、1876年3月3日に解嘱されます。

送別は丁重なものでした。

  • 1875年12月28日 ルドヴィク・サバティエとともに、川村純義の斡旋で宮内省にて明治天皇の謁見を受ける
  • 1876年1月16日 延遼館で送別の宴。三条実美らから書棚と花瓶が贈られる
  • 1876年2月26日 12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出
  • 1876年3月12日 家族とともに横浜港から帰国

日本滞在中に1男2女をもうけています。

帰国後のヴェルニー

フランスに戻ってからは、思うようにいきませんでした。

マルセイユ到着後に消化不良と衰弱で休暇を取り、海軍造船工学学校の教授職などを検討したものの、フランス海軍内での求職活動は難航します。
ローヌ県の海軍工廠で監督業務を務めたあと、サン=テティエンヌ近郊のフィルミニーとロシュ=ラ=モリエールの炭鉱の所長となり、海軍を退職しました。

1882年から1885年までサン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務め、鉱山学校の設立などに携わっています。

1888年に故郷オーブナのポン・ドーブナで家を購入し、1895年に炭鉱の仕事を辞めてこの家へ移り、1908年5月2日に自宅で肺炎のため死去しました。

日本に残るヴェルニーの名前

日本では、ヴェルニーは近代化と日仏友好の象徴とされています。

  • ヴェルニー公園(横須賀市汐入町)。園内の小栗広場にヴェルニーと小栗上野介の胸像が並ぶ
  • ヴェルニー記念館(公園内)。横須賀製鉄所で使われた3トンと0.5トンのスチームハンマーを展示
  • ヴェルニー・小栗祭式典。毎年11月中旬の土曜に胸像の前で開かれる
  • 記念切手。2008年の日仏国交150周年で発行された「幕末シリーズ」10人のひとりに選ばれた
  • 故郷オーブナのポン・ドーブナ付近にはヴェルニー通り(Ave. Verny)がある

→ ヴェルニー公園の見どころとアクセス|横須賀観光の起点

小栗忠順との関係

二人は「構想した人」と「実現した人」の関係にあたります。

横須賀を選び、幕閣を説き伏せて予算を通したのが小栗、現場で工事を統率したのがヴェルニーです。
胸像が並んで立っているのは、横須賀市がこの2人を「本市発展の基礎を確立した恩人」として並べて顕彰したためで、昭和28年(1953年)5月に建てられました。

小栗は1868年に斬られ、ヴェルニーはその後も8年間工事を続けました。
小栗は1号ドックの完成を見ていません。

小栗忠順

小栗忠順

一号ドックが出来上がったのは、わしが斬られた三年後だそうだな。

ヴェルニー

ヴェルニー

戊辰の戦のとき、横浜へ退くよう指示を受けましたが、工事は途中で止められないと申し上げて横須賀に残りました。あなたが始めた仕事を、新しい政府がそのまま引き継いだのです。

→ 小栗忠順とは何をした人か|生涯をわかりやすく解説

大河ドラマ『逆賊の幕臣』での配役

ヴェルニー役は、2026年8月時点で発表されていません。

出演者は第8弾まで発表されていますが、その32人にヴェルニーは含まれていません。
横須賀製鉄所は小栗の代表的な仕事なので今後の発表が期待されますが、現時点では未発表です。

よくある質問

ヴェルニーは何をした人ですか

横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設を指揮したフランスの技術者です。
造船所とドックのほか、観音埼灯台など東京湾周辺の灯台、横須賀の水道、煉瓦製造、技術者養成の学校にも関わりました。

横須賀製鉄所を作ったフランス人は何人いたのですか

ヴェルニーが統率したのは40数名のフランス人技術者です。
そのうち副首長のティボディエの官舎は、ヴェルニー公園内に「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」として再現されています。

ロッシュとヴェルニーはどう違いますか

ロッシュは駐日フランス公使(外交官)、ヴェルニーは技術者です。
建設をフランスに依頼する交渉をまとめたのがロッシュで、その依頼を受けて現場を担ったのがヴェルニーにあたります。

富岡製糸場もヴェルニーが設計したのですか

違います。 富岡製糸場を設計したのは、横須賀製鉄所にいたフランス人技術者バスチャンです。
ただし、製糸機械を導入したブリュナとヴェルニーは大変親しい関係だったことが分かっています。

→ 富岡製糸場と小栗忠順|官営工場につながった構想

もっと詳しく知るには

横須賀製鉄所とヴェルニーを扱った本がいくつも出ています。

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

この記事の出典

フランスが選ばれた経緯と製鉄所の内容は横須賀市公式ホームページ、記念館と胸像の記載はヴェルニー公園 公式サイトによります(2026年8月25日確認)。

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