横須賀製鉄所(よこすかせいてつしょ)は、江戸幕府が神奈川県横須賀市に建設した造船施設です。
勘定奉行だった小栗忠順の建議で、慶応元年(1865年)11月15日にくわ入れ式が行われました。
名前に「製鉄所」とありますが、鉄を作る工場ではありません。
「鉄を加工する場所」という当時の言い回しをそのまま名称にしたもので、中身は造船所です。
明治4年(1871年)に横須賀造船所へ改称され、明治36年(1903年)には横須賀海軍工廠になりました。
このページでは、なぜ作られたのか、建設費はいくらでどこから出たのか、その後どうなったのかを順に整理します。
3行でわかる横須賀製鉄所
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 神奈川県横須賀市。現在の在日米軍横須賀海軍施設の敷地 |
| 着工 | 慶応元年(1865年)11月15日 |
| 建設費 | 4年継続で総額240万メキシコドル |
| 計画者 | 小栗忠順(幕府勘定奉行) |
| 技術責任者 | レオンス・ヴェルニー(フランス) |
| 完成 | 明治4年(1871年)。同年に横須賀造船所へ改称 |
なぜ造船所が必要だったのか
嘉永6年(1853年)のペリー来航で、横須賀は日本が近代社会へ踏み出す最初の地になりました。
幕府は外圧を受けて横浜などを開港しますが、それがきっかけで自分たちの力で日本を守る必要があると考えるようになります。
そのためには海軍力を増強し、軍艦を造り、近代的な造船所を建設しなければなりませんでした。
小栗は、艦船の購入に幕府がどれだけ払っているかを知る立場にいました。
文久2年(1862年)に勘定奉行へ就いた時点で、幕府は海軍力強化のために44隻を諸外国から購入しており、総額は333万6千ドルに達しています。
買い続けるかぎり、修理のたびに外国へ頼ることになります。
そこで、造る側・直す側に回るための施設が要る、という発想でした。
小栗自身、ペリー来航時に浦賀の警備役を務め、戦国時代からの関船しか持たない状態ではアメリカと対等に交渉できないことを目の当たりにしています。
造船所を作るという発想は、このころに生まれたと言われます。
なぜフランスだったのか
当初、小栗らはアメリカに協力を求めました。
遣米使節でアメリカへ渡り、ワシントン海軍工廠を見学した縁があったからです。
ところが当時のアメリカは南北戦争のさなかで、他国を助ける余裕がなく断られます。
イギリス・ロシア・オランダにもそれぞれ事情があり、技術協力を受ける相手探しは難航しました。
そこへフランスが近づいてきます。
フランスは国内の製糸業を支えていたカイコが伝染病にかかり、産業が壊滅状態になっていました。
生糸と、病気に強いカイコを海外に求めていたのです。
駐日フランス公使ロッシュが積極的に幕府へ接近を図ったのは、そうした事情からでした。
仲立ちをしたのが、栗本鋤雲とフランス人のメルメ・カションです。
栗本は小栗の竹馬の友で、カションは栗本が函館にいた時代を共に過ごした間柄でした。
小栗・ロッシュ・栗本・カションの4人で面談が行われ、その1か月もたたないうちに建設地が横須賀に決まります。
技術面の責任者には、当時中国にいたフランス人技師レオンス・ヴェルニーが任じられました。
来日したヴェルニーは、フランスのツーロン港に似た横須賀港を気に入り、造船台やドライドックの建設計画を立てています。
建設費240万ドルはどこから出たのか
費用は4年継続で総額240万メキシコドルでした。
幕府内部では、これだけの負担を強いる計画への反対論が強く、建設地を横須賀にすることにも反対がありました。
それでも押し切れたのは、計画の進み方が速く、外部が知ったときには工作機械がすでにフランスへ発注済みで、取りやめが不可能になっていたからだと言われます。
この巨額の建設費が、後の徳川埋蔵金の噂につながったとも言われます。
しかし実際の財源は隠された金塊ではなく、万延二分金(通称・小栗二分金)などの貨幣増鋳による発行益でした。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
ヴェルニー
二百四十万ドルという額を、幕府はどこから出したのですか。
小栗忠順
埋蔵金を掘り出したわけではない。万延の二分金を吹き増し、その発行の益で払った。しかも一度に払うのではなく、四年に分けて積む算段だ。金塊を隠しているという噂は、この額の大きさだけが一人歩きしたものだよ。
文久3年(1863年)に建設案が幕府へ提出され、14代将軍・徳川家茂がこれを承認。
同年11月26日から実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決まりました。
鉄を大量に必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で鉄山の採掘施設を作る計画も立てられています。
埋蔵量は莫大で鉄分も良好という報告が出ましたが、近隣の石炭供給が不十分なため、当面は木炭を使う高炉を建設すべきとされました。
幕府が倒れても工事は止まらなかった
工事の完了間近に、大政奉還を迎えます。
江戸開城の直前の時点で、第一船渠(ドック)は完成しており、第一船台・第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割・6割でした。
一部完成した施設では、すでに40馬力の小汽船が造られています。
明治新政府は、参与兼外国事務掛・小松帯刀の尽力で1868年9月にオリエンタル・バンクから貸付を受け、ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済して製鉄所を接収しました。
そして1871年(明治4年)に完成させます。
同じ年、待望の第1号ドックが完成し、名称も横須賀製鉄所から横須賀造船所へ変わりました。
11月には明治天皇が横須賀へ行幸しています。
その後の変遷は次のとおりです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1871年4月9日 | 工部省管轄中に横須賀製鉄所から横須賀造船所へ改称 |
| 1872年10月 | 工部省から海軍省の管轄へ |
| 1876年8月31日 | 海軍省直属に |
| 1884年 | 横須賀鎮守府の直轄に |
| 1903年 | 組織改革により横須賀海軍工廠となる |
| 第二次世界大戦後 | 在日米軍の基地に |
横須賀海軍工廠は、その後多くの軍艦を製造しました。
横須賀製鉄所・横須賀造船所・横須賀海軍工廠は、名前が変わっただけで同じ場所の話です。
横須賀製鉄所が日本に持ち込んだもの
この施設が残したのは、船とドックだけではありませんでした。
働き方の仕組み
小栗はヴェルニーを首長に任命しました。
幕府公認の事業で外国人をトップに据えたのは初めてのことです。
この人事によって、職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制といった、経営や人事労務管理の基礎が日本に入りました。
横須賀市の説明によれば、労働時間は午前6時30分から午後5時30分と決められ、製綱所の上に建てた時計台の時刻が所内の標準時とされました。
15分遅れて出勤すると欠勤扱いです。
西洋式の曜日制度も採り入れられ、日曜日が休日になりました。
医師が常駐して職員・職工のけがや病気を診たほか、フランス人技師と日本人職工が親睦のために競技をする運動会も行われています。
メートル法
明治4年2月に完成した石造りのドライドックは、ヴェルニーらフランス人技術者が設計したため、フランスで使われていたメートル法で図面が引かれました。
工事にあたる日本人は、これをすべて当時の尺貫法に置き換えてドックを完成させています。
戦前の日本海軍は後にイギリス海軍式を模範としますが、長さの単位だけは一貫してメートル法が守られました。
日本で正式にメートル法が実施されるのは、昭和34年(1959年)からです。
技術者を育てる学校
構内には技術者養成の教育機関「黌舎」(こうしゃ)が置かれました。
ヴェルニーを校長に、その母校であるパリのエコール・ポリテクニクを模範として明治3年(1870年)に設立されたものです。
造船技術・機械学・製図法のほか、フランス語も教えました。
入学資格は原則13歳から20歳まで、衣食住は官給です。
明治21年(1888年)に閉校するまでの卒業生は約100人。
海軍省・大蔵省・外務省へ進んだ人が多く、100人に数人しか入学できなかったことからエリート学校とも評されました。
黌舎はのちに工部大学校へ吸収され、東京帝国大学工学部造船学科になります。
製鉄所の建設をきっかけに、日本初のフランス語学校である横浜仏蘭西語伝習所も設立されました。
煉瓦と灯台
ヴェルニーの指導のもと、構内では1866年ごろから煉瓦が作られました。
この煉瓦は観音埼灯台・野島埼灯台・品川灯台・城ヶ島灯台などの建造に使われています。
富岡製糸場との関係
世界遺産の富岡製糸場は、横須賀製鉄所にいたフランス人技術者バスチャンが設計しました。
富岡製糸場が建てられたのは明治5年(1872年)で、横須賀製鉄所より後です。
現在も残る「木骨れんが造」(木材の骨組みにれんがを積み上げる工法)と、日本になかった屋根の「トラス工法」は、明治3年までに横須賀製鉄所内へ建てられた副首長のティボディエ官舎など、構内の建物にその原型を見ることができます。
富岡へ製糸機械を導入したフランス人ブリュナと、横須賀製鉄所の首長ヴェルニーが大変に親しい関係だったこともわかっています。
横須賀市は、先に横須賀製鉄所があったことで富岡製糸場ができたとも言えるのではないか、と説明しています。
ヴェルニー
富岡を設計したバスチャンは、横須賀の技師でした。木の骨組みに煉瓦を積む造りも、トラスの屋根も、こちらの構内に先に建っていたものです。
小栗忠順
世界遺産になったのは富岡のほうだが、順で言えば横須賀が先だ。ここで試した工法と、ここにいた技師が、そのまま上州へ渡ったことになる。
横須賀製鉄所は今どうなっているのか
跡地は、在日米軍横須賀海軍施設になっています。
構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つとされています。
幕末に造られたドックは、造船こそ行っていないものの、140年以上たった今も艦船の修理に使われています。
石積みのドックを作るとき、来日したフランス人技術者は、木と紙の家に住む日本人に本当に石積みができるのか不安を感じていました。
実際の工事を見て、日本人の石積み技術の高さに驚かされたと伝えられています。
構内の外で見られるものもあります。
| 見られるもの | 場所 |
|---|---|
| スチームハンマー(幕末から2000年まで稼働) | ヴェルニー公園内・ヴェルニー記念館 |
| ティボディエ邸(2021年に再建) | ヴェルニー公園内 |
| 横須賀港の歴史 | 横須賀中央駅近くの横須賀市自然・人文博物館 |
ティボディエ邸は、明治2年(1869年)ごろに建てられた木骨煉瓦造・平屋建の洋館で、旧横須賀製鉄所当時の唯一の建築遺構でした。
老朽化で取り壊しが検討されましたが、2003年に米海軍の費用負担で解体・部材が横須賀市へ寄贈され、2021年にヴェルニー公園内で「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」として再建されています。
なお、建設時に白仙山を掘削していた際、著名な化石種であるナウマンゾウの最初の標本が発見・報告されています。
後世の評価
小栗が斬られたのは、製鉄所が完成する3年前でした。
明治45年(1912年)7月、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べています。
大隈重信も、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語りました。
小栗がアメリカから持ち帰ったネジが、この造船所につながっていきます。
→ 日本初のネジは横須賀で作られた|小栗忠順が残した産業遺産
よくある質問
横須賀製鉄所は誰が作ったのですか
計画を立てたのは、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗忠順です。
技術面はフランス人技師のレオンス・ヴェルニーが指揮しました。
横須賀製鉄所と横須賀造船所は違うものですか
同じ場所です。
明治4年(1871年)4月9日に、横須賀製鉄所から横須賀造船所へ改称されました。
明治36年(1903年)にはさらに横須賀海軍工廠になっています。
横須賀製鉄所はいつ、どこに作られたのですか
慶応元年(1865年)11月15日にくわ入れ式が行われました。
場所は神奈川県横須賀市で、現在の在日米軍横須賀海軍施設の敷地にあたります。
なぜ「製鉄所」という名前なのですか
「鉄を加工する場所」という意味で当時使われていた言葉を、幕府がそのまま名称にしたためです。
ヴェルニーが技術者と機械の手配で一時帰国している間に決まりました。
建設費はいくらかかったのですか
4年継続で総額240万メキシコドルです。
財源は万延二分金などの貨幣増鋳による発行益でした。
幕末の全体の流れと、小栗を扱った本は次のページにまとめています。
建設の経緯・労働管理・富岡製糸場との関係は横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。