小栗忠順(小栗上野介)と勝海舟は、同じ幕臣でありながら正反対の結論を出した二人として並べて語られます。

薩長軍が江戸へ迫った慶応4年(1868年)1月、小栗は徹底抗戦を、勝は恭順を主張しました。
採用されたのは勝の案で、小栗は罷免され、4か月後に斬首されます。

ここでは、二人が何をめぐって対立したのかを、記録に残っている範囲で整理します。

3行でまとめると

  • 争点は「薩長と戦うか、恭順するか」。慶応4年1月12日から始まった江戸城の評定で表に出た
  • 決めたのは徳川慶喜。慶喜は小栗の作戦を退けて勝の恭順論を採り、小栗を役職から外した
  • 二人は互いを認めてもいた。勝は小栗を「幕末の一人物だよ」と評している

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗忠順

小栗忠順

薩長が攻めてくるなら、駿河湾で艦隊を叩き、箱根で押さえる。勝てる算段はあった。

勝海舟

勝海舟

その算段は聞いた。だが勝ったところで、江戸が焼けて外国につけ込まれては元も子もない。おれは負け方を選んだのさ。

二人の年齢と経歴

まず前提として、勝海舟のほうが4歳年上です。

小栗忠順 勝海舟
生まれ 文政10年(1827年) 文政6年(1823年)
没年 慶応4年(1868年)享年42 明治32年(1899年)享年77
出身 江戸神田駿河台の旗本 江戸本所の御家人の家
1860年の役割 遣米使節の目付。ポーハタン号 咸臨丸の指揮官
幕末の主な役職 勘定奉行・外国奉行・江戸町奉行など 軍艦奉行・陸軍総裁
1868年以降 権田村へ移り、閏4月に斬首 明治政府で参議・初代海軍卿・伯爵

小栗が42歳で死んだあと、勝はさらに31年生きています。
「二人の評価」が長く勝の側から語られてきたのは、この差も理由のひとつです。

→ 幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々

出発点は同じだった|1860年、二人とも太平洋を渡っている

対立の前に押さえておきたいのは、二人が同じ航海で渡米していることです。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節がアメリカへ派遣されました。
正使は新見正興、副使は村垣範正、そして目付が小栗忠順で、一行は米艦ポーハタン号に乗ります。

その護衛という名目で派遣されたのが咸臨丸で、軍艦奉行の木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗り組みました。
木村の従者には福澤諭吉がいます。

小栗はそのまま地球を一周して帰国しました。
二人とも同じ時期にアメリカの工業力と政治を見ているわけで、対立は「見たか見なかったか」の差ではありません。

→ 咸臨丸と万延元年遣米使節|小栗忠順が見たアメリカ

対立が表に出た日|慶応4年1月12日の江戸城評定

鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸へ戻ったあと、慶応4年(1868年)1月12日から江戸城で評定が開かれました。

ここで小栗は、榎本武揚・大鳥圭介・水野忠徳らとともに徹底抗戦を主張します。
提案した作戦はこうでした。

薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する

いわゆる挟撃策です。
のちにこの作戦を聞いた新政府軍の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れたという逸話が伝わっています。

実際、この時点の旧幕府側は鳥羽・伏見に参加していない予備兵力を多く残していました。

しかし慶喜はこの作戦を退け、勝海舟の恭順論を採ります。

慶喜が小栗案を却下した理由

慶喜が抗戦を完全に捨てていたわけではない、という見方があります。

慶喜は同じ時期に横浜の警備を増強し、箱根関と碓氷関に目付を派遣して官軍を迎え撃つ体制も強めています。
当時の慶喜の姿勢は武備恭順であり、家臣団が小栗の意見に引きずられてそこから逸脱するのを防ぐためだった、と推測されています。

薩長が官軍とされたことに困惑する味方を安心させるには、朝廷へ恭順の意思を見せる必要がありました。
明確に敵対を示す小栗の作戦は、その意味で受け入れられなかったということです。

慶喜が抗戦の意思を捨てて絶対恭順に転じるのは、2月以降とされています。

「小栗 vs 勝」という単純な図式ではない

注意しておきたいのは、当時の幕臣のほとんどが主戦論だったことです。

評定では小栗の挟撃策のほかにも「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で官軍を食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など、さまざまな作戦が出ています。
議論百出で、ひとつの意見に集約できる状態ではありませんでした。

「小栗か勝か」の二択に見えるのは、後から振り返った整理の仕方であって、その場の空気ではありません。

罷免から斬首までの4か月

評定のあと、二人の立場は数日で入れ替わります。

日付(旧暦) 出来事
1月12日 江戸城で評定が始まる。小栗は徹底抗戦を主張
1月14日〜15日 小栗、御役御免。日付は資料で割れている(下記)
1月17日 勝海舟、海軍奉行並に就任
1月23日 勝海舟、陸軍総裁に昇進
1月28日 小栗、権田村への土着願書を提出
2月25日 勝、陸軍取扱へ異動。朝廷との交渉に向かう
2月28日 小栗、江戸を発つ
3月1日 小栗、権田村の東善寺に到着
閏4月6日 小栗、水沼河原で斬首される

罷免の日付は資料で1日ずれています。
勝海舟を扱った資料は「慶喜が1月14日に小栗を罷免」と書き、小栗忠順を扱った資料は『小栗日記』にもとづいて「1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて御役御免および勤仕並寄合となる沙汰を申し渡された」としています。

同じ4か月の間に、勝は陸軍総裁として江戸城の明け渡しをまとめ、小栗は群馬の山あいで斬られました。

→ 江戸無血開城に反対した小栗忠順|抗戦論の中身

→ 小栗忠順はなぜ殺されたのか|斬首に至った理由を解説

二人の主張はどこが違ったのか

争点は戊辰戦争の戦い方だけではありません。
記録に残っている範囲で並べると、次のようになります。

論点 小栗忠順 勝海舟
薩長への対応 徹底抗戦。挟撃策で殲滅する 早期停戦と江戸城の無血開城
拠って立つもの 徳川の体制を保ったまま近代化する 公議政体論。徳川にこだわらない
産業・経済 製鉄所・株式会社・洋式軍隊を幕府の事業として作る 貿易による富国強兵
人の登用 気鋭の技術者を役職につけて実務を回す 身分に関係なく優秀な者を政治に用いる
対外構想 フランスの支援で軍と工業を整える 日本・朝鮮・清の東アジア三国同盟

勝が公議政体論を支持したのは横井小楠の影響とされます。
幕府そのものを残すことに重きを置いていなかった点が、小栗との根本的な違いでした。

小栗の側は、横須賀製鉄所も兵庫商社も洋式軍隊も、すべて幕府の事業として構想しています。

→ 小栗忠順の功績まとめ|日本の近代化を作った7つの仕事

お互いをどう評していたか

勝海舟から見た小栗忠順

勝は小栗について、厳しい評と高い評の両方を残しています。

眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし

小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった

「幕末の一人物」と認めたうえで、視野が徳川に限られていた点を惜しんでいるという評価です。

小栗忠順から見た勝海舟

小栗の側から勝を直接評した言葉は、あまり残っていません。

蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)には、大久保某という旗本が小栗を訪ねて「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」と言ったとき、小栗が黙認を与えたという記述があります。

なお、勝は旧幕時代から毛嫌いする人も多い人物でした。
栗本鋤雲は勝を「羞恥心を知らない者」と評しています。栗本は小栗の竹馬の友です。

→ 栗本鋤雲とは|小栗忠順の親友だった幕臣の生涯

「ライバル」と呼ばれるようになったのはいつからか

「小栗忠順 ライバル」で検索されるように、二人は対の存在として扱われてきました。
ただしこの構図は、後世のテレビ番組や書籍が育てた面もあります。

  • 1998年12月29日 テレビ朝日『あの勝海舟が最も恐れた男、サムライ小栗上野介!』
  • 2012年12月12日 BS-TBS『ライバルたちの光芒 勝海舟vs小栗上野介』

「勝が最も恐れた男」は番組のタイトルであって、勝自身の言葉として記録されているものではありません。

一方で、遺族の側には長く感情が残りました。
小栗の妻・道子と、蜷川新の母・はつ子は姉妹です。その血筋にあたる格闘家の武蔵の父は、小栗を無実の罪で処刑に追いやったとして今でも勝海舟を憎んでいる、と伝えられています。

小栗を惜しんだ人たち

小栗の死後、その仕事を評価した言葉は新政府の側からも出ています。

  • 大隈重信「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」
  • 東郷平八郎 明治45年(1912年)7月、小栗の遺族を自宅に招き「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた
  • 三野村利左衛門「もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう」

三野村は、かつて小栗家で中間を務めた人物で、のちに三井の大番頭になりました。

→ 三野村利左衛門とは|小栗の遺族を守った三井の大番頭

大河ドラマ『逆賊の幕臣』での二人

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公です。

  • 小栗忠順: 松坂桃李さん(2025年3月3日発表)
  • 勝海舟: 大沢たかおさん(2025年10月23日、出演者発表 第2弾)

勝海舟役が第2弾という早い段階で発表されたことからも、この作品で二人の関係が軸のひとつになることがうかがえます。

→ 勝海舟とは|幕末の海軍を作った男の生涯

よくある質問

小栗忠順と勝海舟の年齢差は

勝海舟が4歳年上です。勝は文政6年(1823年)、小栗は文政10年(1827年)の生まれです。

二人はどちらが正しかったのですか

評価は分かれていて、決着していません。

勝の恭順で江戸は戦火を免れました。一方で大村益次郎は小栗の作戦を恐れ、大隈重信は明治政府の近代化政策を「小栗の模倣」と語っています。
このサイトでは、どちらが正しかったかを断定せず、記録に残っている主張と評価を並べる形にしています。

二人は直接言い争ったのですか

江戸城の評定で意見が対立したことは記録されています。
ただし「面と向かって激論した」場面を具体的に描いた同時代の記録は確認できていません。二人のやり取りとして広まっている場面の多くは、後年の読み物や映像作品によるものです。

もっと詳しく知るには

二人の関係を扱った評伝や小説がいくつも出ています。

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

この記事の出典

配役はNHK ドラマ情報ブログ(出演者発表 第2弾)によります(2026年8月25日確認)。

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