小栗忠順(おぐり ただまさ)は、幕末の幕臣です。
勘定奉行・江戸町奉行・外国奉行を歴任し、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設、日本初の株式会社の設立、幕府財政の立て直しを手がけました。
それでいて、明治政府には「逆賊」とされ、取り調べを一度も受けないまま斬首されています。
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、この人物を主人公にした作品です。
このページでは、小栗忠順が何をした人なのかを、生涯と業績、そして最期まで通してまとめました。
小栗忠順とは|3行でまとめると
- 幕府の役人として、日本の近代化の土台になる設備と制度を先につくった人
- 大政奉還のあとも徳川家の抗戦を主張し、罷免されて群馬の領地へ引いた
- そこで新政府軍に捕らえられ、罪状の取り調べもなく斬られた(享年42)
のちに大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語り、
東郷平八郎は日本海海戦の勝利について、製鉄所と造船所をつくった小栗のおかげが大きいと述べています。
作家の司馬遼太郎は、小栗を「明治国家の父の一人」と評しました。
「小栗上野介」とは何か|上野は東京の上野ではありません
小栗忠順は、小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)とも呼ばれます。
検索でも「小栗上野介」「小栗上野介忠順」で探す人が多く、どれも同じ人物です。
「忠順」は諱(いみな)、つまり本名です。
「上野介」は官位で、文久3年(1863年)に名乗りました。
それ以前の安政6年(1859年)からは「小栗豊後守」を名乗っています。
通称は「又一」で、これは小栗家の当主が代々受け継いだ呼び名です。
上野介の「上野」は群馬県のこと
ここでよく誤解されます。
「上野」は東京の上野ではなく、上野国(こうずけのくに)=現在の群馬県を指す旧国名です。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗鉞子
上野介、って上野の駅のあたりを治めていた人という意味ですか?
小栗忠順
そこがいちばん間違えられるところだ。上野国、いまの群馬県のことだよ。江戸の上野とはまったく関係がない。
読み方も「うえの」ではなく「こうずけ」です。
出身地は江戸、領地が群馬
もうひとつ紛らわしいのが出身地です。
小栗忠順が生まれたのは江戸の駿河台(現在の東京都千代田区)で、群馬県の出身ではありません。
文政10年(1827年)、禄高2,500石の旗本・小栗忠高の子として生まれました。幼名は剛太郎です。
群馬とのつながりは、小栗家の領地が上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)にあったことから来ています。
罷免されたあとに隠遁したのがこの権田村で、最期を迎えたのもここでした。
群馬に墓と資料館があるのは、そのためです。
官位の「上野介」と、領地の上野国権田村がたまたま重なっているため、余計に混同されやすい人物です。
小栗忠順の生涯|年表でたどる
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 文政10年(1827年) | 江戸駿河台に生まれる。幼名は剛太郎 |
| 天保6年(1835年)ごろ | 8歳で安積艮斎の私塾「見山楼」に入門。栗本鋤雲と出会う |
| 嘉永2年(1849年) | 建部政醇の娘・道子と結婚 |
| 嘉永6年(1853年) | ペリー来航。異国船に対処する詰警備役となる |
| 安政2年(1855年) | 父・忠高の死により家督を相続 |
| 安政6年(1859年) | 小栗豊後守を名乗る |
| 安政7年(1860年) | 遣米使節の目付として渡米。地球を一周して帰国 |
| 文久3年(1863年) | 上野介に遷任 |
| 慶応元年(1865年) | 横須賀製鉄所の建設に着手 |
| 慶応3年(1867年) | 大政奉還 |
| 慶応4年(1868年) | 罷免され、権田村へ隠遁。閏4月6日に斬首。享年42 |
学問は8歳から安積艮斎に学びました。
この私塾からは吉田松陰・高杉晋作・岩崎弥太郎らも出ており、生涯の盟友になる栗本鋤雲とはここで知り合っています。
武術では剣術を島田虎之助に学び、のちに直心影流の免許皆伝を得ました。
アメリカへ渡り、地球を一周した
安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、小栗忠順は遣米使節の目付としてアメリカへ渡ります。
乗ったのはアメリカ艦ポーハタン号でした。
このとき護衛として同行した咸臨丸に乗っていたのが勝海舟であり、通訳として乗り組んでいたのがジョン万次郎(中濱万次郎)です。
一行はワシントンで大統領に謁見したあと、大西洋を回って帰国しました。
日本人として初めて地球を一周した使節団になります。
アメリカ政府との通貨交渉
この渡米で小栗忠順が果たした最大の仕事は、通貨をめぐる交渉でした。
当時、日米の金銀の交換比率には大きなずれがあり、日本から金が流出していました。
小栗は分析実験によって貨幣に含まれる金銀の量を突き合わせ、比率の不当さを数字で示しています。
交渉そのものは条約改定に至らなかったものの、技術と数字で外交をした最初期の日本人でした。
ワシントン海軍工廠で受けた衝撃と、持ち帰ったねじ
小栗はワシントン海軍工廠を見学し、日本との製鉄・金属加工技術の差に驚きます。
このとき記念に持ち帰ったのがねじでした。
同じ規格でいくらでも作れる部品というものが、当時の日本には無かったのです。
「造船所をつくらなければ国が立ちゆかない」という確信は、このときの見聞に由来します。
横須賀製鉄所をつくった
帰国後、小栗忠順は幕府に造船所の建設を建議します。
フランス公使レオン・ロッシュの協力を得て、慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設が始まりました。
建設を指揮したのは、フランス人技師のヴェルニーです。
現在の横須賀市にヴェルニー公園があるのは、この縁によります。

この計画は「幕府が倒れたら無駄になる」と反対されました。
それに対して小栗が返した言葉として伝わるのが、次の一言です。
幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。
小栗鉞子
幕府が倒れてしまったら、せっかく作っても無駄になりませんか。
小栗忠順
無駄にはならない。徳川の世が終わっても、日本という国は続くのだからね。造れる場所さえ残しておけば、あとを継いだ者が使えばよい。
実際、横須賀の施設は明治政府にそのまま引き継がれ、日本の造船業の出発点になりました。
東郷平八郎が日本海海戦の勝利を小栗のおかげだと述べたのは、この設備を指しています。
製鉄所の建設に合わせて、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所も設立されました。
設備だけでなく、それを動かす人を同時に育てようとしていたことがわかります。
日本で最初のものをいくつも作った
小栗忠順の仕事は造船所だけではありません。
- 兵庫商社 — 日本初の株式会社にあたる組織。「company」を「商社」と訳したのは小栗だとする説があります
- 築地ホテル館 — 日本初の本格的なホテル。慶応4年8月に建設が始まりました
- 西洋式火薬工場 — ベルギーから機械を購入し、滝野川反射炉の一角に建設
- 洋式軍隊の整備 — フランスの協力を得た軍制改革
いずれも、江戸幕府が倒れる直前の数年間に手がけられています。
幕府の財政が苦しいなかで、これだけの新規事業を通した実務家でした。
その財政面を支えた一人が、のちに三井組の大番頭となる三野村利左衛門です。
三野村はもともと小栗家に仕えていた人物で、小栗との縁があって三井に入ったとされています。
渋沢栄一との関係
「小栗上野介 渋沢栄一」で検索されることが多いのは、二人が同じ幕臣だったからです。
渋沢栄一が幕府の使節としてヨーロッパへ渡る前、会計のことが心配だと小栗に相談した話が伝わっています。
このとき小栗は「あなたは5年も先のことを心配する柄ではないでしょう。だいたい討幕を企てたほどの人ではないか」と冗談を返し、渋沢をしどろもどろにさせたといいます。
渋沢栄一は幕臣から明治の実業界へ進み、小栗忠順は幕府側に留まって斬られました。
同じ場所から出発して正反対の結末に至った二人として、しばしば並べて語られます。
なぜ「逆賊」とされ、斬られたのか
慶応3年(1867年)の大政奉還のあと、徳川慶喜は新政府に恭順する道を選びます。
小栗忠順はこれに反対し、薩摩・長州への主戦論を唱えました。
意見は容れられず、慶応4年(1868年)に罷免。
領地の権田村へ隠遁し、水路を開き、塾を開こうとしていたと伝わります。
取り調べのないまま斬首された
同年閏4月4日、小栗は東善寺で捕縛されます。
新政府軍からの武装解除の求めには応じ、養子の忠道を証人として差し出したうえでの逮捕でした。
そして閏4月6日の午前11時ごろ、取り調べを受けないまま、烏川の水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)で家臣3人とともに斬首されます。享年42。
養子の忠道も、翌日に高崎で斬首されました。
助命の沙汰が出ていたものの、その知らせが現地に届いたのは斬首の翌日だった、という説も伝わっています。
逮捕の理由とされたもの
理由として挙げられてきたのは、主に次の2つです。
- 大砲2門・小銃20挺を所持し、農兵を訓練していたこと
- 勘定奉行時代に徳川家の大金を隠したという疑い(徳川埋蔵金の説)
ただし、どちらも裏づけとなる根拠は現在まで出ていません。
埋蔵金の話が今も語り継がれているのは、この逮捕理由が発端になっています。
死の直前に遺した言葉
処刑の場で家臣が改めて無罪を訴えたとき、小栗は「お静かに」と制し、こうなった以上は未練を残すのはやめようと諭したと伝わります。
言い残すことはないかと問われ、自分自身には何も無いが、母と妻と息子の許嫁を逃がしたので、その婦女子には寛大な処置を願いたい、と頼んだといいます。
残された家族はどうなったか
小栗忠順は、自分が捕らえられる前に、母のくに、妻の道子、養女の鉞子(よきこ)を会津へ逃がしていました。
道子は身重の体でした。
一行は善光寺参りを装い、険しい山道を越えて会津へ向かいます。
閏4月29日に会津へ到着し、松平容保の計らいで会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に女児を出産しました。名は国子といいます。
翌明治2年(1869年)春に東京へ戻った一家の面倒を見たのが、三野村利左衛門でした。
三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族をかくまい、明治10年(1877年)に亡くなるまで世話を続けています。
道子が明治18年(1885年)に亡くなると、国子は親族の大隈重信に引き取られました。
大隈の妻・綾子は小栗の従姉妹にあたります。
のちに国子は矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興しました。
のちの評価
生前から敵味方の双方に強い印象を残した人物でした。
- 勝海舟 — 「小栗上野介は幕末の一人物だよ」と評した一方、「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とも述べています
- 西郷隆盛 — 「偉大なる権謀家」
- 大村益次郎 — 幕府が小栗の献策を採用して実行していたら、自分たちの命は無かっただろう、という趣旨の言葉を残しています
- 福沢諭吉 — 「鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)の人」
明治政府中心の歴史観がゆるむにつれて評価は見直され、幕府側から近代化を進めた人物として語られるようになりました。
映像作品のなかの小栗忠順
大河ドラマでは、これまで脇役として何度か登場してきました。
とくに2021年の『青天を衝け』では、渋沢栄一の物語のなかで幕臣・小栗上野介として描かれています。
主人公として大河ドラマに描かれるのは、2027年の『逆賊の幕臣』が初めてです。
演じるのは松坂桃李さん。2027年は、小栗忠順の生誕200年にあたる年でもあります。
生誕200年という区切りは、番組の公式アカウントも節目として扱っています。
番組の公式インスタグラムが、誕生日にあたる6月23日に投稿したものです。
墓とゆかりの地
小栗忠順の墓は2か所にあります。
- 東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田) — 隠遁先であり、捕縛された寺。遺品館があります
- 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区) — 小栗家の墓所
このほか、横須賀市にはヴェルニー公園があり、製鉄所の縁で小栗忠順の胸像が置かれています。
2026年4月には、東善寺の近くに小栗忠順の資料を展示する記念館を建てることが発表されました。
横須賀市も大河ドラマ館の誘致に向けて動いています。
もっと深く知るには
小栗忠順は、同じ時代を生きた人物との関係を追うと像がはっきりします。
勝海舟、井伊直弼、栗本鋤雲、三野村利左衛門といった人々の側から見ると、同じ出来事がまったく違って見えてきます。
評伝や研究書も複数出ています。
どの本から読むとよいかは、書籍のページにまとめました。
よくある質問
小栗忠順は何をした人ですか
幕末の幕臣で、横須賀製鉄所(造船所)の建設、日本初の株式会社にあたる兵庫商社の設立、幕府財政の立て直しを手がけた人物です。
明治政府に「逆賊」とされ、取り調べのないまま斬首されました。
小栗忠順の読み方は
「おぐり ただまさ」です。
別名の小栗上野介は「おぐり こうずけのすけ」と読みます。
小栗上野介と小栗忠順は同じ人ですか
同じ人です。
「忠順」が本名で、「上野介」は文久3年(1863年)から名乗った官位です。
なぜ群馬県にゆかりがあるのですか
小栗家の領地が上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町権田)にあり、罷免後にそこへ隠遁して最期を迎えたためです。
生まれたのは江戸の駿河台で、群馬の出身ではありません。
なぜ殺されたのですか
新政府軍は大砲・小銃の所持と農兵の訓練を挙げましたが、取り調べは行われませんでした。
徳川家の金を隠したという疑いも語られますが、いずれも裏づけは出ていません。
小栗旬とは関係がありますか
血縁関係はありません。
俳優の小栗旬さんは2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主演していますが、小栗忠順とのつながりはありません。