明治維新(めいじいしん)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期にかけて日本国内で行われた、一連の近代化改革のことです。

封建制の幕藩体制を廃し、中央集権の統一国家と資本主義社会へ移行する出発点になりました。

ひとつの事件の名前ではありません。
政治・中央官制・法制・軍事・身分制・地方行政・金融・産業・文化・教育・外交・宗教にいたるまで、あらゆる面の改革をまとめて指す言葉です。

だから「明治維新は何年ですか」という問いには、はっきりした答えがありません。
まずそこから整理します。

明治維新はいつからいつまでか

始まりと終わりの両方に、複数の説があります。

始まりの説

説 時期 根拠
天保年間 1831〜1845年 天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、蛮社の獄など、幕藩体制の内部矛盾が表に出た時期
ペリー来航 1853年 外圧が加わった起点。最も広く採られている
安政の通商条約 1858年 不平等条約の締結
大政奉還・王政復古 1867年 政権が実際に移った年

官選の史料集でも区切り方が違います。
『復古記』は慶応3年(1867年)の大政奉還から明治元年10月28日の東征大総督解任までを扱い、『大日本維新史料』は弘化3年(1846年)の孝明天皇践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県までの25年間をまとめています。

終わりの説

説 時期 根拠
廃藩置県 1871年 藩が消え、中央集権が形になった
西南戦争 1877年 封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった
内閣制度の発足 1885年 近代的な行政機構の完成
大日本帝国憲法の発布 1889年 立憲体制の確立

一般には、始期をペリー来航(1853年)、終期を廃藩置県(1871年)や地租改正(1873年)を経て西南戦争(1877年)までとすることが多い、という整理になります。

このページでも、その約25年間で見ていきます。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

西郷隆盛

西郷隆盛

明治維新は何年か、と聞かれると答えに困りもす。

大久保利通

大久保利通

一つの事件の名ではないからだ。始まりを黒船の嘉永六年、終わりを西南戦争の明治十年と置く見方が最も多いが、天保のころからとする説も、廃藩置県で終わったとする説もある。官が編んだ史料集でさえ、扱う範囲が違う。

明治維新の年表

改暦(明治5年12月)までの日本は太陰太陽暦なので、西暦とはずれがあります。
また、慶応4年は明治元年でもあります(一世一元の詔により、改元年の元日にさかのぼって新元号を使うため)。

年 出来事
天保4年〜10年(1833-39) 天保の大飢饉。100万人以上が犠牲になったとされる
天保8年(1837) 大塩平八郎の乱
天保10年(1839) 蛮社の獄
天保13年(1842) アヘン戦争の情報を得た幕府が異国船打払令を廃止し、薪水給与令を発布
嘉永6年(1853) 黒船来航
嘉永7年(1854) 日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約。安政東海・南海地震で災異改元
安政2年(1855) 安政江戸地震、日蘭和親条約
安政5年(1858) 日米修好通商条約(続けてオランダ・ロシア・英・仏=安政五カ国条約)、安政の大獄、コレラ流行
安政7年(1860) 桜田門外の変
文久2年(1862) 文久の改革、生麦事件、はしか流行
文久3年(1863) 薩英戦争、八月十八日の政変、下関戦争
元治元年(1864) 禁門の変、四国艦隊下関砲撃、第一次長州征討
慶応2年(1866) 薩長同盟、第二次長州征討
慶応3年(1867) 四侯会議、大政奉還、王政復古の大号令
慶応4年=明治元年(1868) 1月・鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争開始。3月・五箇条の御誓文。4月・江戸開城、会津戦争開始。7月・上野戦争、政体書、東京奠都。9月8日・明治に改元
明治2年(1869) 5月・箱館戦争で戊辰戦争終結。6月・版籍奉還
明治4年(1871) 廃藩置県、戸籍法
明治5年(1872) 徴兵令施行、人身売買禁止令、国立銀行条例。12月・グレゴリオ暦へ改暦
明治6年(1873) 地租改正、明治六年政変
明治7年(1874) 民撰議院設立建白書、佐賀の乱、台湾出兵
明治9年(1876) 秩禄処分、廃刀令
明治10年(1877) 西南戦争
明治12年(1879) 琉球処分
明治18年(1885) 太政官制廃止、内閣制度発足
明治22年(1889) 大日本帝国憲法発布
明治23年(1890) 第1回帝国議会

5つの段階でつかむ

年表だけだと流れが見えないので、5つに区切ります。

① 外圧が来る(1853〜1860)

黒船が来て、幕府は開国します。
問題は、開国そのものよりもその決め方でした。

大老・井伊直弼は、天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印させ、反対勢力を安政の大獄で処罰します。
その反動で、直弼は桜田門外で暗殺されました。

「幕府が独断で決められる」という前提が、ここで崩れます。
朝廷が政治の当事者になったのが、この段階の一番大きな変化です。

黒船来航そのものは黒船来航と開国|日本が変わった1853年からの10年に、井伊直弼は井伊直弼とは|小栗忠順を抜擢したと伝わる大老にまとめました。

② 攘夷が壊れる(1861〜1866)

「外国を打ち払え」という攘夷論が最も強かった時期です。
そして、実際に戦って負けた時期でもあります。

  • 文久3年(1863)薩英戦争 … 薩摩がイギリスと戦う
  • 文久3年〜(1863-64)下関戦争 … 長州が四国艦隊の砲撃を受ける

実力差を身をもって知った薩摩と長州は、攘夷から倒幕へ舵を切ります。
慶応2年(1866)の薩長同盟は、その結果です。

③ 政権が移る(1867〜1868)

出来事 内容
大政奉還(慶応3年10月) 徳川慶喜が政権を朝廷へ返上
王政復古の大号令(同12月) 幕府・摂政・関白を廃し、新政府を樹立
鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月) 戊辰戦争の始まり
江戸開城(同4月) 江戸城が無血で明け渡される
箱館戦争(明治2年5月) 戊辰戦争の終結

新政府の方針は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)に公布された五箇条の御誓文で明文化されました。
まだ戊辰戦争のさなかで、日本統一後の国是を内外に示す必要があったためです。
明治天皇が百官を率いて皇祖神に誓いを立てる、という形式が採られました。

翌日には、幕府の高札が撤去され、代わりに五榜の掲示が立てられます。
こちらは儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止と、江戸幕府の統治政策を暫定的に踏襲した内容でした。
新しい理念と古い掟が、同じ2日間に並んで出されたことになります。

④ 国のかたちを作り直す(1869〜1873)

ここからが「改革」の本体です。

年 改革 中身
明治2年 版籍奉還 大名が土地と人民を天皇へ返す
明治4年 廃藩置県 藩を廃止して県を置く。中央集権の完成
明治4年 戸籍法 翌年の壬申戸籍で、旧武士を士族、それ以外を平民とした
明治5年 徴兵令施行 陸軍省・海軍省を設置
明治6年 地租改正 収量に応じた物納から、土地を基準にした金納へ

税と兵の仕組みを変えたことが、いちばん大きな転換でした。
年貢は収量を基本とする物納で、藩ごとに税率が違いました。
土地を私有と認めて地券を発行し、地価に対して課税する方式へ変えたことで、税収が安定します。

軍も同じです。
それまで正規の軍人は武士階級でしたが、欧米列強と対等と見なされるには市民からなる国民軍が要る、という判断でした。
徴兵令を最初に構想したのは大村益次郎で、暗殺後は山縣有朋が引き継いでいます。

⑤ 士族が退場する(1874〜1877)

改革の最大の敗者は、武士でした。

  • 明治8年(1875)平民苗字必称令 … 苗字を平民にも義務化
  • 明治9年(1876)秩禄処分 … 華族・士族への家禄の支給を打ち切る
  • 明治9年(1876)廃刀令 … 士族の特権が消える

これが佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱につながり、いずれも短期間で鎮圧されました。
そして明治10年(1877)、維新の元勲である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱・西南戦争が鎮圧されると、士族の武力による反抗は終わります。

明治維新の終期を1877年とする説は、ここを根拠にしています。

西郷については西郷隆盛とは|小栗忠順を処刑した側の人物にまとめました。

「明治維新」という呼び方について

当時の人は「明治維新」とは言っていません。
御一新(ごいっしん)と呼んでいました。

現在の研究では「維新革命」「明治革命」という呼び方もされます。
英語でも restoration(王政復古)と revolution(革命)のどちらで訳すかが議論になってきました。
王政の復古なのか、社会構造の革命なのか——呼び方そのものが、この出来事の性格をめぐる論点になっています。

西郷隆盛

西郷隆盛

おいたちは、明治維新などとは言うちょらんかったですな。

大久保利通

大久保利通

御一新と呼んでいた。明治維新は後の世が付けた名だ。王政を復古したと見るか、身分と土地を根こそぎ作り変えた革命と見るか。名の付け方そのものが、いまも論点になっている。

幕末と明治維新は何が違うのか

混同されやすい2語ですが、指しているものの種類が違います。

幕末 明治維新
指すもの 時代の区分 一連の改革そのもの
おおよその範囲 黒船来航(1853)〜 江戸幕府の終わり(1868) 幕末から明治初期(〜1877年ごろ)
主語 江戸幕府 明治新政府(と、それを準備した動き)

期間が重なっているので「幕末=明治維新の前半」と考えるとつかみやすくなります。
幕末の側から見た流れは幕末とは|年表でわかる開国から明治維新までの15年にまとめています。

明治維新の人物

幕末から明治維新にかけて名前が挙がる人物を、立場ごとに整理します。

立場 主な人物
幕府側 井伊直弼、徳川慶喜、勝海舟、小栗忠順、岩瀬忠震、水野忠徳
倒幕側 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬
新政府の実務 大村益次郎、山縣有朋、大隈重信、渋沢栄一

ひとりずつのまとめは幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々にあります。

小栗忠順と明治維新

このサイトが小栗忠順を扱っているので、最後にその視点を置きます。

小栗は幕府の勘定奉行・外国奉行として、横須賀製鉄所の建設、フランスに依頼した洋式軍隊の整備、株式会社「兵庫商社」の設立など、のちに明治政府がやることと重なる仕事をしていました。

その小栗は、慶応4年(1868年)閏4月6日、取り調べを受けないまま斬首されています。享年42。
新政府が五箇条の御誓文を出した3月14日の、2か月足らずあとのことでした。

明治政府中心の歴史観が薄まると、小栗の評価は見直されます。

  • 大隈重信 … 「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った
  • 東郷平八郎 … 明治45年(1912年)7月、小栗の遺族を自宅に招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた
  • 司馬遼太郎 … 小栗を「明治国家の父の一人」と記した

大隈の妻・綾子は小栗の親族で、幼少期に小栗家へ同居していた時期があります。
小栗の遺児・国子は、母の没後に大隈へ引き取られました。
評価する側と評価される側が、血縁でつながっている点は差し引いて読む必要があります。

小栗の生涯は小栗忠順とは何をした人かに、最期は小栗忠順の最期|なぜ処刑されたのかにまとめました。

よくある質問

明治維新とは何をしたことですか

幕藩体制を廃して中央集権の国家をつくり、身分制度・税制・軍制・教育・法制などを西洋式に作り変えたことです。
版籍奉還、廃藩置県、地租改正、徴兵令、秩禄処分がその中心にあたります。

明治維新は何年ですか

一つの年に定まりません。
始まりをペリー来航の1853年、終わりを西南戦争の1877年とする見方が最も多く採られています。
政権が実際に移ったのは、大政奉還の1867年です。

明治維新は誰がやったのですか

特定の一人ではありません。
倒幕を進めた薩摩・長州の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らが新政府の中心になりましたが、改革の実務は旧幕臣を含む多くの人物が担いました。

明治維新と大政奉還はどう違うのですか

大政奉還は、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が政権を朝廷へ返上した一つの出来事です。
明治維新は、その前後にまたがる一連の改革全体を指します。

明治維新で武士はどうなったのですか

士族という族称になりましたが、明治9年の秩禄処分で家禄の支給が打ち切られ、同年の廃刀令で特権も失いました。
これが士族の反乱につながり、明治10年の西南戦争が鎮圧されて終わります。

明治維新は革命ですか

見方が分かれています。
天皇を戴く「王政復古」の形をとった一方で、身分制と土地制度を根本から変えた点は革命的です。
英語でも restoration と revolution のどちらで訳すかが議論されてきました。


幕末側からの流れと、当時を扱った本のページも用意しています。

→ 幕末とは|年表でわかる開国から明治維新までの15年

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

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