慶応4年(1868年)閏4月6日、小栗忠順は斬首されました。
その翌日には、養子の小栗忠道も斬られています。

それでも小栗家は絶えていません。
処刑の時点で妻の道子は身重で、その4か月後に生まれた娘・国子が家を継いだからです。

このページでは、妻・母・養子・遺児という順に家族を整理し、小栗上野介の子孫が現在どうなっているかまでをまとめます。

家族の一覧

まず全体を並べます。

続柄 名前 備考
父 小栗忠高 元新潟奉行。安政2年(1855年)に医師の誤診で死去
母 くに(邦子) 名前の表記は資料により割れる。後述
妻 道子 播州林田藩の前藩主・建部政醇の娘。嘉永2年(1849年)結婚
養女 鉞子(よきこ) 日下数馬の娘。忠順の従妹にあたる
養子 小栗忠道 駒井朝温の次男。鉞子の許婚
娘 国子 忠順の唯一の実子。父の死後に誕生

実の子は国子ひとりです。
養女と養子を迎えていたのは、跡取りの男子がいなかったためでした。

母の名は資料により割れる

小栗忠順の母については、「くに子」と「邦子」で表記が分かれます。
出自についても、小栗忠清の娘とする記述と、日下対馬守(日下数馬)の妹とする記述の両方があります。

この2つは矛盾しません。
東善寺の説明によれば、くには忠清の実の娘で、忠清に男子がいなかったため旗本中川家から忠高を婿に迎えました。
その後で弟の数馬が生まれ、数馬のほうが日下家へ養子に出たという経緯です。
つまり「忠清の娘」でも「日下数馬の姉」でもあることになります。

名前の表記については、どちらが正しいと断定できる材料がないため、ここでは両方を挙げるにとどめます。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗道子

小栗道子

お義母さまのご出自は、忠清さまの娘とも、日下数馬さまの妹とも書かれております。

くに

くに

その二つは食い違ってはおりません。わたくしは忠清の実の娘で、男子がなかったゆえ中川家から忠高を婿に迎えました。弟の数馬はあとから生まれて、日下家へ養子に出たのです。名の字だけは、くに子とも邦子とも書かれていて、どちらと決める手がかりがございません。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、母のくにを鈴木京香、妻のみち(道子)を上白石萌音が演じます。

妻・道子

小栗忠順の妻である道子は、播州林田藩(現在の兵庫県姫路市林田町)の前藩主・建部政醇の娘です。
嘉永2年(1849年)、忠順23歳のときに結婚しました。

慶応4年(1868年)に忠順が権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ隠遁したとき、道子も同行しています。
そして忠順が捕縛される直前、母のくに、養女の鉞子とともに会津へ逃がされました。

このとき道子は身重でした。
権田村の村役人・中島三左衛門が村人で護衛隊を組み、閏4月6日の夕方に村を出ています。

一行は野反池から地蔵峠を越えて秋山郷へ抜け、越後を回って閏4月28日に会津若松へ到着しました。
くにと鉞子の隊は善光寺参りを装って渋峠を越え、信州回りで越後へ向かい、堀之内村で偶然に合流しています。

会津藩家老・横山常守を頼り、松平容保の計らいで会津藩の野戦病院に収容されました。
そして6月10日、道子は女児を出産します。国子と名づけられました。

くに

くに

身重のまま地蔵峠を越えて、会津まで落ちのびましたね。

小栗道子

小栗道子

六月十日に国子を産みました。あの子が育ちましたので、小栗の家は絶えずに済んだのです。

道子は明治18年(1885年)に没しています。

養子・小栗忠道

小栗忠道は、幕府の大目付や勘定奉行を務めた駒井朝温の次男です。
安政6年(1859年)、忠順が遣米使節としてアメリカへ発つ直前に、養女・鉞子の許婚として小栗家に迎えられました。
通称は又一で、これは小栗家の当主が代々名乗ってきた通称です。

幕府の歩兵差図役頭取に任じられるなど、若くして軍事の分野で働いています。

慶応4年、新政府軍が忠順を捕らえるため高崎へ進軍すると、忠道は養父の命で申し開きの使者として向かいました。
弁明は聞き入れられず、そのまま捕縛されます。
そして忠順が斬られた翌日の閏4月7日、高崎城下で家臣3名とともに斬首されました。享年21です。

胴体は、小栗家の旧知行地であった下斎田村(現在の高崎市下斎田町)の名主が引き取りました。
村人たちは阿弥陀堂の地に葬り、墓を建てて「小栗様」として供養しています。
下斎田は安永9年(1780年)から幕末までの88年間、小栗家の知行地でした。

遺児・国子と小栗家の再興

会津で生まれた国子が、小栗家をつなぎました。

明治2年(1869年)の春、護衛隊は道子らを東京、さらに静岡まで送り届けて権田村へ戻ります。
その後、道子と国子の面倒を見たのが三野村利左衛門でした。

三野村はかつて小栗家で中間(武家奉公人)を務めた人物で、のちに三井組に入り、三井家の大番頭になっています。
慶応4年に忠順が江戸を離れるとき、三野村は千両箱を贈ってアメリカへの亡命を勧めました。
忠順はこれを断り、「婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と伝えています。

三野村は日本橋浜町の別邸に一家を匿い、明治10年(1877年)に亡くなるまで面倒を見続けました。
三野村家に残る記録には、その後も国子を支援していたことが記されています。

明治18年に道子が没すると、国子は親族の大隈重信に引き取られました。
大隈の妻・綾子は旗本三枝家の出で、母が忠高の妹にあたるため忠順の従姉妹です。
幼いころには兄とともに小栗家で育てられていました。

大隈の勧めで、国子は矢野龍渓の弟・小栗貞雄を婿に迎え、小栗家を再興します。

なお、忠順が斬られたあと、国子が成人するまでの当主は、忠道の弟にあたる駒井朝温の三男・忠祥が務めました。

小栗忠順の家系図

小栗忠順の家系図を、当主の代でたどると次のようになります。

代 当主 続柄
11 小栗忠高 忠順の父
12 小栗忠順
13 小栗忠祥 駒井朝温の三男。忠道の弟
14 小栗貞雄 矢野龍渓の弟。国子の婿
15 小栗又一
16 小栗忠人
17 小栗又一郎 漫画家・小栗かずまた

三河小栗氏の当主として、忠順は第12代にあたります。

子孫は現在どうしているのか

現在の子孫として名前が公表されているのは、忠順の玄孫にあたる漫画家の小栗かずまたです。
本名を又一郎といい、小栗家第17代にあたります。

2005年の「よこすか開国祭」では、小栗かずまたのデザインしたキャラクター「オグリン」が登場しました。
横須賀製鉄所を建設した先祖にちなんだものです。

子孫が先祖を漫画にしている

小栗かずまたは、忠順そのものを題材にした作品も描いています。

『小栗忠順物語〜ボクのひいひいおじいちゃん〜』(集英社『最強ジャンプ』・全5回連載)で、監修には東善寺の村上泰賢と、歴史学者の大石学が入りました。

タイトルの「ひいひいおじいちゃん」が示すとおり、子孫が自分の先祖を描いた作品です。

顕彰する側の活動も続いている

血縁とは別に、小栗忠順を顕彰する活動も続いています。

小栗上野介顕彰会は機関誌『たつなみ』を発行しており、研究者や地元の関係者が新しい説を発表する場になっています。
たとえば2017年の第42号では、小栗が山鹿流兵学を学んだ時期に名刀工・源清麿が同じ屋敷に住み込みで修業していたことから、製鉄所建設の原点は10代で鉄に触れた経験にあったのではないかという新説が出されました。

会の名前にある「たつなみ」は、小栗家の家紋「丸に立波」から来ています。

遠戚には格闘家の武蔵がいます。
道子と、武蔵の曽祖父・蜷川新の母であるはつ子が姉妹という関係です。

なお、名字が同じことから俳優の小栗旬との関係を尋ねられることがありますが、
公表されている系図に小栗旬の名前は出てきません。

家紋は「丸に立波」

小栗上野介の家紋は「丸に立波」(まるにたつなみ)です。

小栗の菩提寺である東善寺は、この「丸に立波」を寺紋として使っています。
旗本小栗家の家紋と同じものです。

東善寺の説明によれば、染物屋や提灯屋が使う家紋集『紋帳』には、ふつうの「立波」は載っているものの、小栗家の「丸に立波」は載っていません。
同じ「たつなみ」でも、常陸(茨城県)の小栗家や岐阜・土岐市の小栗家は別の図柄を用いています。

先祖は三河小栗氏

小栗家の遠い祖先は、常陸国小栗保(現在の茨城県筑西市)から三河へ移り、徳川家の家臣になった一族です。

家を大きくしたのは、戦国時代の武将小栗忠政でした。
その功績によって、江戸時代の初めに大成村550石を含む2,550石を与えられています。

忠政の菩提寺は、さいたま市大宮区大成町の普門院です。
ここには本家と分家をあわせて30基におよぶ一族の墓があり、「大成領主小栗忠政一族の墓」として昭和41年(1966年)にさいたま市の史跡に指定されました。

忠政が没したあと、延宝元年(1673年)から明和5年(1768年)までは天領となりましたが、その後ふたたび小栗家が拝領し、明治維新まで治めています。

忠政の通称も又一でした。
勝海舟は忠順を評して「先祖の小栗又一によく似ていたよ」と語っています。

よくある質問

小栗忠順に子どもは何人いましたか

実の子は、娘の国子ひとりです。
国子は忠順の死後、慶応4年6月10日に会津で生まれました。
ほかに養女の鉞子と養子の忠道がいます。

小栗上野介の子孫は今もいますか

います。
公表されている人物としては、玄孫にあたる漫画家の小栗かずまた(本名・又一郎)が小栗家第17代です。

小栗忠順の妻はどうなりましたか

妻の道子は、忠順が斬られる直前に会津へ逃がされ、生き延びました。
逃避行の途中で身重のまま山越えをし、会津で国子を出産しています。
明治18年(1885年)に没しました。

小栗家と三井は関係がありますか

小栗家の元奉公人であった三野村利左衛門が、のちに三井家の大番頭になっています。
三野村は忠順の死後、残された家族を生涯にわたって保護しました。
小栗家そのものが三井の一族というわけではありません。

小栗忠道はなぜ斬られたのですか

養父の忠順に代わって高崎藩へ申し開きに向かったところ、弁明が聞き入れられずに捕縛されたためです。
忠順が斬られた翌日、閏4月7日に高崎城下で斬首されました。享年21です。

小栗家の墓はどこにありますか

忠順の墓は東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田169)、雑司ヶ谷霊園、普門院の3か所にあります。
東善寺には父子と家臣の供養墓があり、裏山に本墓があります。
先祖・小栗忠政の一族の墓は、さいたま市の普門院です。


小栗忠順という人物の全体像と、家族を扱った評伝は次のページにまとめています。

→ 幕末の人物|『逆賊の幕臣』に登場する人たちを整理する

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ


会津への逃避行と母の出自は東善寺「会津へ逃れた道子夫人」、家紋は同「小栗家の家紋は『丸に立波』」、忠道の墓と下斎田は高崎市「小栗上野介の関連史跡」、普門院の墓はさいたま市「大成領主小栗忠政一族の墓」をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。

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