栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、小栗忠順の生涯の盟友だった幕臣です。
出発点は幕府の医師でした。
それが左遷先の箱館でフランス語を身につけ、外国奉行になり、横須賀製鉄所の現地責任者になり、明治には新聞記者になります。
小栗が「日本の近代化を作った」と評価されるとき、その隣にほぼ必ずいるのがこの人です。
栗本鋤雲とは|3行でまとめると
- 幕府の奥詰医師から出発し、蒸気船に乗りたがったことで箱館へ左遷された
- 箱館でフランス語を習得し、外国奉行として横須賀製鉄所の建設と対仏交渉を担った
- 明治は新政府の誘いを断り、郵便報知新聞の編集の中心としてジャーナリストになった
経歴の流れ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 文政5年(1822年) | 江戸・神田猿楽町に、幕府の医師の三男として生まれる |
| 天保14年(1843年) | 昌平坂学問所に入学。黌試で優秀な成績を収め褒賞を得る |
| 嘉永元年(1848年) | 奥医師の家系である栗本家の家督を継ぎ、奥詰医師となる |
| 安政5年(1858年) | 蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任 |
| 文久2年(1862年) | 医籍から士籍へ格上げされ、箱館奉行所組頭に。樺太・南千島の探検を命じられる |
| 文久3年(1863年) | 江戸に呼び戻され、昌平坂学問所の頭取、さらに目付に登用 |
| 元治2年(1865年) | 横須賀製鉄所の御用掛。小栗忠順らとともに任ぜられる |
| 慶応2年(1866年) | 正月14日、従五位下・安芸守に叙任。勘定奉行の小栗忠順らと親交を結ぶ |
| 慶応3年(1867年) | 外国奉行のまま勘定奉行・箱館奉行を兼ね、フランスへ渡る |
| 慶応4年(1868年) | 帰国。新政府への出仕を謝絶して隠遁 |
| 明治5年(1872年) | 「横浜毎日新聞」に入る |
| 明治6年(1873年) | 「郵便報知新聞」へ。以後ジャーナリストとして活躍 |
| 明治30年(1897年) | 気管支炎のため76歳で死去 |
生年月日は資料で割れている
生年は文政5年(1822年)で一致していますが、日が割れています。
- ほかの資料 — 文政5年3月10日(1822年5月1日)
- 東善寺 — 1822(文政五)年三月三日
父の名も、資料によって「幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男」とするものと、東善寺のように「父喜多村安正の三男」とするものに分かれます。
号と諱の違いである可能性はありますが、資料の上では別の表記です。
名前が多い人
栗本鋤雲は名前がとにかく多いので、資料を読むときに混乱しやすい人物です。
| 種類 | 表記 |
|---|---|
| 名(諱) | 鯤(こん) |
| 初名 | 哲三 |
| のちの名 | 瑞見(ずいけん) |
| 通称 | 瀬兵衛(せへえ) |
| 号 | 匏庵(ほうあん)、鋤雲 |
| 官位 | 従五位下・安芸守 |
幕府の記録では「栗本鯤」、箱館の古地図では「栗本瑞見」、著作では「匏庵」と出てきます。
どれも同じ人です。
母は三木正啓の娘で、長谷川宣以(「鬼平」として知られる火付盗賊改方の長谷川平蔵)の姪にあたります。
長兄の喜多村直寛は、幕府医学館考証派の重鎮として著名な人物でした。
小栗忠順とはどこで出会ったのか
二人が出会ったのは、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」です。
小栗忠順の経歴をまとめた資料には、小栗が8歳から小栗家の屋敷内にあったこの塾に入門し、栗本鋤雲と知り合うことになったと書かれています。
東善寺は、病気で数年遅れて入塾した栗本が、同じ頃に入った小栗剛太郎(忠順の幼名)と知り合い、生涯の盟友となったと記しています。
塾に入った年については資料が割れています。
- 東善寺 — 1830年(文政十三)1月23日、9歳で入門
- ほかの資料 — 1838年(天保9年)、安積艮斎の私塾見山楼を経て
栗本は9歳で喀血し、なかなか治らないため親は督学せず自然治癒を待ち、1838年に17歳で健康を取り戻したと東善寺は書いています。
入門と復学のどちらを指しているのか、資料からは判断できません。
なお、この安積艮斎は2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』にも登場し、中村雅俊さんが演じます。
→ 『逆賊の幕臣』キャスト一覧|発表済みの配役をまとめて確認
蒸気船に乗りたがって左遷された
嘉永元年(1848年)、26歳で奥医師の栗本家の養子となり、奥詰医師となります。
将軍家の医師です。
ところが安政2年(1855年)、オランダから献上された幕府の蒸気船観光丸の試乗に応募したことが問題になりました。
「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と当時の奥詰医長に咎められ、御匙の岡櫟仙院に忌まれて、ついに侍医の座から追われます。
そして安政5年(1858年)2月24日、蝦夷地在住を命じられて箱館へ赴きました。
島崎藤村は『夜明け前』に「喜多村瑞見」の名で栗本を登場させており、この左遷の理由を同じく観光丸の試乗応募だと書いています。
医師としての出世コースから外されたわけですが、この左遷が栗本の人生を作り替えました。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
将軍家の医師が蝦夷地送りだ。あのときは気の毒に思ったものだが。
栗本鋤雲
おかげでフランス語を得た。箱館でカションに日本語と書物を教え、代わりに教わったのだ。あの左遷がなければ、横須賀の交渉も務まらなかった。
箱館でやったこと
箱館時代の栗本は、医師の仕事にとどまりませんでした。
- 箱館医学所(のちの市立函館病院)を建設。外国船が入港するたびに病人の受け入れ療養機関がなかったため
- 七重村に薬園を開き、薬草に加えて蝦夷地に少ない松・杉などの苗を育て、官林や道路・海岸へ植栽した
- 久根別川を浚って船運を開通させ、肥料を運べるようにした
- 軍川の原野を開拓して牧牛場とし、南部地方から良い牛を買い求めて畜産振興を図った
- 八王子千人同心らを移住させて養蚕をさせた
- 千歳湖畔で北五味子を得て幕府に献上し、将軍の用品として毎年献上することを命じられた
これらの事業が成果を上げたため、文久2年(1862年)に幕府は栗本を医籍から士籍へ格上げし、箱館奉行所組頭としました。
医者から武士になったということです。
フランス語を手に入れた
箱館時代のもう一つの収穫が語学でした。
奉行の命を受けて、この地に赴任してきたフランス人宣教師メルメ・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語を教わっています。
このカションは、のちに駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳を務めることになる人物です。
つまり栗本は、幕府がフランスと組む何年も前に、その通訳と個人的な信頼関係を作っていたことになります。
文久2年(1862年)7月からは、箱館奉行の命で北方の探検にも出ました。
北緯48度の地域まで至って越冬し、翌年にはエトロフ・クナシリの2島を巡視。
ロシアとの外交関係を論じた建議書を提出して、その卓見を奉行に賞されています。
横須賀製鉄所の現地責任者
文久3年(1863年)、探検から戻るとすぐに江戸へ呼び戻されます。
幕府は箱館での功績を評価しており、昌平坂学問所の頭取、さらに目付に登用しました。
そして元治2年(1865年)正月、横須賀製鉄所(造船所)の御用掛に小栗忠順らとともに任じられます。
栗本は建設の現地責任者を命じられました。
栗本自身の著作『匏庵遺稿』には、契約の内容がこう記されています。
ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要する
小栗忠順の経歴をまとめた資料も、費用を4年継続で総額240万ドルと記しており、金額は一致しています。
反対論にどう対したか
同じ『匏庵遺稿』には、建設への反対がどれほど強かったかも書かれています。
その一二をあげれば、海軍部下の者はフランスに技術援助を受けることをあげつらい、またある者は無用不急だといい、大計に暗い迂儒武人たちは極口罵詈して非難し、この計画をつぶしにかかったが、既に数ヶ月前に決定していることだからいっさい取り合わなかった
反対を押しきれた理由としては、計画の進みが速く、外部がこれを知ったときにはもう取りやめられなかったから、という研究者の見方も紹介されています。
決めてから知らせる、という進め方だったことが両方から読み取れます。
小栗忠順
海軍の者からも儒者からも、無用不急だと罵られたな。
栗本鋤雲
数か月前に決まったことだと言って、いっさい取り合わなかった。外の者が気づいたときには、もう取りやめられぬところまで進んでいたのだ。
栗本はほかにも、陸軍軍制をフランス式に改めるためシャノアンらを招くこと、横浜に仏語伝習所を設けて将校候補生を育てることを決めています。
そして東善寺は、これらについて「みな、小栗上野介、浅野伊賀守の二人と協議して、進言、提議したことがほとんど行なわれた」と書いています。
外交官としての栗本鋤雲
栗本が急に外国奉行になった経緯も具体的に記録されています。
英仏米蘭の4か国公使が軍艦を引き連れて大坂へ乗り込み、兵庫開港の期日を約定より早めるよう迫りました。
これを仮に内諾してしまった老中2人が免職となり、後任として栗本らが呼ばれます。
まず駆けつけた栗本が、兵庫開港を約定どおりに戻す交渉の専任係を命じられ、急遽外国奉行となって横浜へ出向き、4か国公使と談判して元通りにすることに成功しました。
東善寺は、同役の2人は人数でいるだけで、ほとんど栗本一人の交渉でまとめたと書いています。
その年の末には、下関砲撃事件の賠償金として4か国に払うべき300万両のうち、第1回支払い金50万両の用立てができず、栗本が再び公使と交渉して支払い延期を取り付けました。
金がないという話を、金を作らずに交渉で片づけたことになります。
パリで断り続けた話
慶応3年(1867年)、栗本は外国奉行のまま勘定奉行・箱館奉行を兼ねてフランス行きを命じられます。
きっかけは、パリ万博へ派遣された徳川昭武一行が、パリからロンドンへ渡って留学すると発表したことでした。
英仏は日本での主導権を争っていたため、突然の留学地変更はフランス側を刺激し、日仏関係が悪化します。
そこで、フランス語が堪能で双方の事情に通じた栗本が使者として派遣されました。
慶応3年6月に日本を発ち、8月にマルセーユ港へ着いて、スイスに滞在していた昭武らを訪ねてロンドン行きを断念させています。
このとき昭武の随員だった渋沢栄一はロンドン行きの主唱者でした。
しかし大局から説く栗本に従ってパリ留学へ変更したため、フランス側の悪感情もきれいに一掃されたと東善寺は書いています。
ナポレオン3世の申し出を断り通した
パリ滞在中、ナポレオン3世はしばしば栗本を引見し、こう説き誘ったとされます。
フランスはいくらでも兵器その他を貸与援助するから、薩長を討伐してはどうか
栗本はそのつど巧妙な言葉でこれを拒絶し通しました。
そして、そのフランス滞在中に、外国奉行の川勝広道から大政奉還と江戸幕府の滅亡の報を受けます。
なお、栗本は登山家としても知られ、スイス滞在中にアルプスへ登り、日本人として初めてアルプスに足を踏み入れた人とされています。
もう一つ、1867年のパリ万博に際して「エキスポジション」の訳語として「博覧会」を考案したのも栗本です(『匏庵遺稿』二)。
明治の栗本鋤雲
慶応4年(1868年)に帰国すると、ともに政務を行った者はあるいは死に、あるいは新政府に仕えており、知る者は一人もいない状態でした。
栗本の才能は新政府からも評価されていて出仕の誘いがありましたが、幕臣として重用された栗本は幕府に忠義を誓い、新政府に仕えることを潔しとせず、これを謝絶して隠遁します。
長く外国にいた疲れで体を壊し、家禄を返上して小石川に帰農しました。
自宅を「借紅園」と名づけ、五、六百坪の土地にシャクヤクを植えて暮らしています。
新聞人になる
明治5年(1872年)、仮名垣魯文の推薦で「横浜毎日新聞」に入ります。
翌明治6年(1873年)には「郵便報知新聞」へ移り、編集の中心となりました。
東善寺は明治6年9月に編集主任となり、月給150円だったと記しています。
福沢諭吉を訪ねてその門下生を記者に加えるなど、紙面づくりにも貢献しました。
随筆の軽妙洒脱な文章が読者に評判となり、当時の新聞界を代表するジャーナリストとして名を上げます。
部下には原敬や犬養毅がいました。
犬養は若い頃、栗本の家に寄食していたほどです。
明治8年(1875年)9月には、ハインリッヒ・シーボルトから博物館の設置とその重要性について聞き取り、「博物館論」として発表しました。
これが蜷川式胤や町田久成に影響を与え、後の国立博物館の発足につながったとされています。
退社の時期は資料で割れている
報知新聞を離れた時期については、記述が一致していません。
- ほかの資料 — 1881年(明治14年)、明治十四年の政変で政府を去った大隈重信派によって郵便報知新聞が買収されたため退社
- 東善寺 — 明治19年(65歳)、報知新聞を退職
いずれかが誤りか、退社と再入社があったのか、資料からは判断できません。
勝海舟に「下がれ」と怒鳴った話
栗本鋤雲の逸話としてよく引かれるのが、これです。
晩年、旧幕臣の会合で同席した勝海舟に対して、栗本は「下がれ」と怒鳴りつけ、その場は凍りついたとされています。
このとき福沢諭吉も同席していたため、福沢は『瘠我慢の説』を誰よりも早く知ることになったと記録されています。
小栗の親友であり、幕府に忠義を尽くして新政府の誘いを断った栗本と、幕府を無血で明け渡し新政府にも仕えた勝。
この一言に、その距離が出ています。
もう一つ、島崎藤村による人物評もよく引かれます。
先生は額も広く鼻も厚く、耳や口も大きかったものですから『お化け栗本』と異名をとったくらい、並外れた容貌の持主でした
また、滞仏中にはメルメ・カションの紹介で、長年患っていた痔の手術を受けています。
医師出身だからこそ、日本の旧来の医術では手術ができず、フランスの医術のほうが信頼できると確信しての行動でした。
手術にはクロロホルム麻酔が使われています。
『逆賊の幕臣』では誰が演じるのか
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で栗本鋤雲を演じるのは青木崇高さんです。
NHKの第4弾キャスト発表(2026年4月24日)で公表されました。
栗本鋤雲は過去の映像作品にも登場しています。
| 作品 | 年 | 演者 |
|---|---|---|
| NHK正月時代劇『またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜』 | 2003年 | 松重豊さん |
| NHK大河ドラマ『青天を衝け』 | 2021年 | 池内万作さん |
| NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』 | 2027年 | 青木崇高さん |
墓と胸像はどこにあるか
明治30年(1897年)3月6日、気管支炎のため76歳で死去。
墓所は東京都文京区大塚の善心寺です。
また、小栗忠順の墓所である高崎市の東善寺の境内には、小栗と栗本の像が並んで立っています。
栗本の胸像は境内で見ることができます。
よくある質問
栗本鋤雲は何をした人ですか
幕府の奥詰医師から出発し、箱館で地域振興とフランス語習得を果たし、外国奉行として横須賀製鉄所の建設と対仏交渉を担った幕臣です。
明治以後は郵便報知新聞の編集の中心としてジャーナリストになりました。
栗本鋤雲と小栗忠順の関係は何ですか
小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」で出会った、生涯の盟友です。
横須賀製鉄所の建設や対フランス政策は、二人が協議して進めたものだと栗本自身が書き残しています。
「鋤雲」はどう読みますか
「じょうん」です。
名は鯤(こん)、通称は瀬兵衛(せへえ)、号は匏庵(ほうあん)でもあり、資料によって表記が変わります。
栗本鋤雲は新政府に仕えなかったのですか
仕えていません。
新政府から出仕の誘いはありましたが、幕臣として重用された恩義から謝絶し、隠遁しました。
「博覧会」という言葉は栗本鋤雲が作ったのですか
1867年のパリ万博に際して「エキスポジション」の訳語として「博覧会」を考案したと、栗本自身の『匏庵遺稿』二に記されています。
同じ時代を生きた人たちについては、人物のまとめページがあります。
箱館時代と横須賀製鉄所・対仏交渉の細部は東善寺「栗本鋤雲の事績」が引く『匏庵遺稿』ほかをもとにまとめました(2026年8月25日確認)。東善寺は小栗忠順を顕彰する立場のため、評価にあたる部分は出所を明示して分けています。