小栗忠順の読み方は「おぐり ただまさ」です。
「ただゆき」「ただじゅん」ではありません。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公は、この小栗忠順(おぐり ただまさ)です。
ただ、この人物には呼び名がいくつもあります。
小栗上野介、小栗又一、小栗豊後守、剛太郎——どれも同じ一人の人間を指します。
ここでは、どの呼び名がいつ使われたのか、そして読み間違えやすい部分を整理します。
小栗忠順の呼び名一覧
| 呼び名 | 読み | 種類 | 使われた時期 |
|---|---|---|---|
| 剛太郎 | ごうたろう | 幼名 | 生まれてから |
| 又一 | またいち | 通称 | 生涯 |
| 忠順 | ただまさ | 諱(本名) | 元服後 |
| 豊後守 | ぶんごのかみ | 官位 | 安政6年(1859年)〜 |
| 上野介 | こうずけのすけ | 官位 | 文久3年(1863年)〜 |
同じ人物に4種類の呼び方があるのは、江戸時代の武士としてはごく普通のことでした。
「忠順」は本名(諱)
忠順は諱(いみな)、つまり本名にあたる名前です。
読みは「ただまさ」。
生まれたときの名は剛太郎で、元服してから忠順を名乗りました。
ややこしいのは、江戸時代の武士は本名で呼ばれることがほとんどなかったことです。
諱は本人が署名するときや、公式の記録に使われるもので、日常で呼びかける名前ではありませんでした。
そのため同時代の人が「小栗忠順」と呼んでいた場面は、実はあまり多くありません。
「又一」は小栗家代々の通称
日常で使われたのが又一(またいち)です。
これは小栗家の当主が代々名乗ってきた通称でした。
つまり、この名を継ぐこと自体が「小栗家の当主である」という意味を持ちます。
忠順は三河小栗氏の第12代当主です。
家督を継いだのは安政2年(1855年)、父の小栗忠高が医師の誤診で亡くなったときでした。
「豊後守」と「上野介」は官位
官位は、朝廷から与えられる肩書きです。
小栗忠順は生涯に2つの官位を名乗りました。
- 安政6年(1859年) … 従五位下・豊後守に叙任
- 文久3年(1863年) … 上野介に遷任
つまり33歳から豊後守、37歳から上野介ということになります。
遣米使節としてアメリカへ渡ったのは安政7年(1860年)なので、このときの肩書きは「豊後守」でした。
横須賀製鉄所の建設や勘定奉行としての活躍は上野介の時期にあたります。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗鉞子
アメリカへ渡られたときは、まだ上野介ではなかったのですか。
小栗忠順
あのときは豊後守だ。上野介へ移ったのは文久三年、帰ってから三年あとになる。使節の記録に豊後守と出てくるのはそのためだよ。
なぜ豊後守から上野介へ変えたのか、その理由は記録として残っていません。
「上野介」は「こうずけのすけ」
上野介の読みは「こうずけのすけ」です。
「うえのすけ」「じょうやのすけ」ではありません。
上野国(こうずけのくに)は、いまの群馬県にあたります。
検索では「小栗上野之助」という表記も見かけますが、これは誤りです。
正しくは「上野介」で、「之助」ではありません。
「介」は国司の次官を意味する言葉だからです。
なぜ「上野守」ではなく「上野介」なのか
ここには、平安時代までさかのぼる理由があります。
天長3年(826年)、常陸・上総・上野の3国は「親王任国」と定められました。
この3国の長官には必ず親王が任命され、長官は「守」ではなく「太守」と称することになったのです。
しかも親王の太守は現地へ赴任しない遙任だったため、現地での実務上の最高位は次官の「介」でした。
この慣例は江戸時代まで残ります。
「上総守」「上野守」という官職は親王にしか許されないため、武士は「介」を名乗りました。
本多正純、吉良義央、そして小栗忠順が「上野介」なのは、そういう理由です。
つまり小栗上野介の「介」は、格下だったからではありません。
上野国では介が事実上の最高位でした。
小栗鉞子
守ではなく介では、格が下のように聞こえてしまいます。
小栗忠順
上野の守は親王しか名乗れぬ決まりでね。しかも太守は現地へ下らぬから、実務の頭はおのずと次官の介になる。格が下なのではなく、武士に許された一番上がそこなのだよ。
実際に上野国へ赴任したわけではない
もうひとつ注意したいのは、江戸時代の受領名(じゅりょうめい)は名誉的な肩書きであって、その国を治める仕事とは関係がないことです。
小栗忠順が上野介になったからといって、群馬県へ赴任したわけではありません。
ただし偶然にも、小栗家の領地は上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)にありました。
罷免されたあとに小栗が移り住み、最期を迎えたのがこの村です。
「小栗上野介」と「小栗忠順」はどちらが正しい?
どちらも正しい呼び方です。使い分けの目安は次のとおりです。
| 呼び方 | よく使われる場面 |
|---|---|
| 小栗忠順 | 学術的な記述、事典類の項目名、正式な人物名として |
| 小栗上野介 | 顕彰活動、地元・群馬での呼称、一般的な読み物 |
| 小栗上野介忠順 | 両方をつなげた丁寧な表記 |
菩提寺である東善寺(高崎市倉渕町権田)や地元の顕彰会は、「小栗上野介」を使っています。
一方、事典類の項目名は「小栗忠順」です。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、公式に発表されている役名は「小栗忠順」です。
間違えやすい「上野介」つながり
「上野介」で検索すると、まったく別の人物が出てくることがあります。
吉良上野介(きら こうずけのすけ)——忠臣蔵で討ち入りを受けた、あの吉良義央です。
同じ「上野介」ですが、時代も家も別です。
吉良義央は元禄期の高家旗本で、小栗忠順より150年ほど前の人物にあたります。
上で見たとおり、上野国が親王任国だったために「介」を名乗った——という共通点があるだけです。
俳優の小栗旬さんとの関係を探す人もいますが、こちらも血縁関係は確認されていません。
戒名と墓
小栗忠順の戒名は「陽寿院殿法岳浄性大居士」です。
墓は複数あります。
- 東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田) — 菩提寺
- 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)
- 普門院(さいたま市)
よくある質問
小栗忠順の読み方は?
「おぐり ただまさ」です。
小栗上野介の読み方は?
「おぐり こうずけのすけ」です。上野国はいまの群馬県にあたります。
又一とは何ですか
小栗家の当主が代々名乗った通称です。忠順も又一を名乗りました。
豊後守と上野介はどう違うのですか
どちらも官位です。安政6年(1859年)に従五位下・豊後守となり、文久3年(1863年)に上野介へ移りました。
なぜ「上野守」ではないのですか
上野国は親王任国で、長官(太守)は親王が務める決まりだったためです。
武士が名乗れる最上位が次官の「介」でした。
大河ドラマではどの名前で呼ばれますか
役名として発表されているのは「小栗忠順」です。
劇中でどう呼ばれるかは放送を待つことになります。
幼名は何ですか
剛太郎(ごうたろう)です。
小栗忠順が何をした人物なのかは、生涯をまとめたページで解説しています。
呼び名の由来や生涯をもっと詳しく知りたい場合は、本のページを用意しました。
地元での呼称は東善寺の公式サイトをもとにまとめました(2026年8月25日確認)。