幕末(ばくまつ)は、江戸幕府が終わりに向かっていく時代のことです。

1853年の黒船来航から始まるという見方が一般的で、終わりについては大政奉還・江戸開城・箱館戦争の終結など、いくつもの区切り方があります。
わずか15年ほどのあいだに、日本は鎖国を捨て、幕府を失い、新しい政府を持つことになりました。

このページでは、幕末の流れを年表でたどりながら、「攘夷か開国か」という対立の裏で何が動いていたのかまで見ていきます。

幕末はいつからいつまでか

始まりは1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の黒船来航とするのが一般的です。
王政復古の大号令(1868年)でも、「癸丑(1853年)以来未曾有の国難」という言い方で、この年が体制の変わり目として指し示されています。

終わりのほうは、見方が分かれます。

終わりとする時点
徳川慶喜が大政奉還を行った 1867年11月9日(慶応3年10月14日)
江戸開城 1868年5月3日(慶応4年4月11日)
箱館戦争の終結(旧幕府軍の抵抗が終わる) 1869年
廃藩置県で幕藩体制が完全に終わる 1871年8月29日(明治4年7月14日)
太陽暦の採用前日 1872年12月31日(明治5年12月2日)

つまり「幕末は何年まで」に決まった答えはありません。
このページでは、黒船来航(1853年)から箱館戦争の終結(1869年)までを扱います。

→ 黒船来航と開国|日本が変わった1853年からの10年

幕末年表

和暦(西暦) 出来事
嘉永6年(1853年) ペリー艦隊が来航。6月に将軍・徳川家慶が死去し、11月に徳川家定が将軍宣下
嘉永7年(1854年) 3月3日、日米和親条約を締結
安政5年(1858年) 4月に井伊直弼が大老に就任。6月に日米修好通商条約調印。7月に家定が死去し、10月に徳川家茂が将軍宣下。9月から安政の大獄
万延元年(1860年) 1月〜11月、遣米使節を派遣。3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される
文久2年(1862年) 4月に寺田屋騒動生麦事件が起きる
文久3年(1863年) 5月10日、長州藩が攘夷を決行して外国船を砲撃。7月に薩英戦争。8月18日に八月十八日の政変
元治元年(1864年) 6月5日に池田屋事件、7月19日に禁門の変。7月に長州征討が発令され、8月に四国連合艦隊が下関を砲撃。11月に長州が降伏(第一次長州征伐)
慶応2年(1866年) 1月22日に薩長同盟。6月から第二次長州征伐。7月に将軍・家茂が死去し、12月に徳川慶喜が将軍宣下。12月25日に孝明天皇が崩御
慶応3年(1867年) 1月9日に睦仁親王が践祚(明治天皇)。10月14日に大政奉還。11月15日に近江屋事件で坂本龍馬が暗殺。12月9日に王政復古の大号令
慶応4年/明治元年(1868年) 1月3日に鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まる。4月に江戸開城
明治2年(1869年) 箱館戦争が終わり、旧幕府軍の抵抗が終結

→ 大政奉還とは|なぜ行われたのかをわかりやすく

→ 戊辰戦争とは|流れと結果をわかりやすく解説

5つの局面で追う幕末

① 開国を迫られる(1853〜1858年)

ペリー艦隊の来航で、幕府は200年以上続けた方針の変更を迫られます。
日米和親条約、続いて日米修好通商条約が結ばれ、日本は自由貿易を通じて欧米中心の世界経済に組み込まれました。

この時期に、幕府は使節をアメリカへ送っています。
万延元年(1860年)の遣米使節では、小栗忠順が目付として渡米し、勝海舟は護衛艦の咸臨丸を指揮しました。

→ 咸臨丸と万延元年遣米使節|小栗忠順が見たアメリカ

② 大老の暗殺(1858〜1860年)

条約調印と将軍の跡継ぎ問題をめぐって、大老・井伊直弼は反対派を大量に処罰します(安政の大獄)。
その報復として、万延元年(1860年)3月3日、井伊は江戸城の門前で暗殺されました(桜田門外の変)。

幕府のトップが白昼に殺されるという事態は、幕府の権威が崩れていく決定的な出来事になります。

③ 攘夷と公武合体(1860〜1864年)

外国を追い払えという尊王攘夷の運動が高まり、京都は志士たちが集まる政治の中心地になりました。
一方の幕府は、朝廷と結びつくことで立て直しを図ります(公武合体)。

しかし文久3年(1863年)に長州藩が単独で攘夷を決行し、翌年には四国連合艦隊の砲撃を受けて敗北。
薩摩藩も薩英戦争を経験し、攘夷が現実的でないことを、双方が実力で思い知ることになりました。

京都の治安維持にあたったのが、会津藩預かりの新選組です。

→ 新選組とは|幕府側から見た隊士たちの役割

④ 薩長同盟と幕府の敗北(1864〜1867年)

敵同士だった薩摩と長州が、慶応2年(1866年)に手を結びます(薩長同盟)。
その仲立ちに関わったのが、土佐を脱藩した坂本龍馬でした。

同じ年の第二次長州征伐で、幕府軍は勝てませんでした。
7月に将軍・家茂が死去し、12月には徳川慶喜が将軍となりますが、状況はすでに厳しいものでした。

→ 坂本龍馬とは|幕末をわかりやすく人物からたどる

⑤ 大政奉還から戊辰戦争へ(1867〜1869年)

慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が政権を朝廷に返上します(大政奉還)。
12月には王政復古の大号令が出され、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まりました。

幕府側では抗戦論と恭順論が割れます。
抗戦を主張した小栗忠順は罷免され、恭順を選んだ勝海舟が江戸城の明け渡しをまとめました。

→ 江戸無血開城に反対した小栗忠順|抗戦論の中身

→ 明治維新とは|わかりやすく年表で流れをつかむ

天皇の代替わりも重なっていた

幕末の終盤は、天皇の代替わりと重なっています。

  • 慶応2年(1866年)12月25日 — 孝明天皇が崩御
  • 慶応3年(1867年)1月9日 — 睦仁親王が践祚(明治天皇

大政奉還と王政復古は、この代替わりのすぐあとに起きた出来事です。
「王政復古」とは、政治の実権を天皇のもとへ戻すという意味でした。

幕末は「攘夷か開国か」だけの話ではない

幕末を語るとき、攘夷派と開国派の対立、あるいは薩長と幕府の戦いとして描かれることが多くあります。
ただ、それだけでは説明のつかない側面があります。

幕府は、負ける前から近代化を進めていました。

  • 造船と製鉄の拠点をつくる
  • 洋式の軍制へ切り替える
  • 株式会社にあたる組織で商人の資金を集める
  • 財政の立て直しを図る

これらを実務として担ったのが、勘定奉行・外国奉行を務めた小栗忠順です。
明治政府が進めた近代化政策の多くは、幕府が先に手をつけていたものでした。

→ 江戸幕府はなぜ滅びたのか|財政から見た崩壊の理由

→ 勘定奉行・外国奉行・軍艦奉行とは|幕府の役職を解説

→ 横須賀製鉄所とは|建設費・目的・その後をわかりやすく

→ 日本初の株式会社「兵庫商社」とは|小栗の経済構想

→ 築地ホテル館と反射炉|小栗が仕掛けたインフラ事業

→ 日本初のネジは横須賀で作られた|小栗忠順が残した産業遺産

→ 富岡製糸場と小栗忠順|官営工場につながった構想

幕末の主な出来事の一覧

年表に入りきらないものも含めた一覧です。

  • ペリー艦隊来航/プチャーチン艦隊来航
  • 日米和親条約締結/安政の改革
  • 日米修好通商条約締結/安政の大獄
  • 桜田門外の変/坂下門外の変
  • 天誅組の変/寺田屋騒動/文久の改革
  • 生麦事件/薩英戦争
  • 八月十八日の政変/池田屋事件/禁門の変
  • 第一次長州征伐/第二次長州征伐/薩長同盟
  • 慶応の改革/大政奉還/近江屋事件/王政復古
  • 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争)

よくある質問

幕末とはいつからいつまでですか

始まりは1853年の黒船来航とするのが一般的です。
終わりは大政奉還(1867年)、江戸開城(1868年)、箱館戦争の終結(1869年)など見方が分かれ、廃藩置県(1871年)までとする考え方もあります。

幕末は何年続きましたか

黒船来航から箱館戦争の終結までで数えると、約16年です。

幕末の中心になった藩はどこですか

薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩など、いわゆる西南雄藩です。

幕末と明治維新は同じ意味ですか

違います。
幕末は江戸幕府の終わりに向かう時期を指し、明治維新は新しい政府ができて社会の仕組みが変わっていく一連の動きを指します。

幕末に天皇は代わったのですか

代わりました。
慶応2年12月に孝明天皇が崩御し、翌年1月に睦仁親王が践祚しています。これがのちの明治天皇です。


幕末を人物から追いたい場合は事典を、本で読みたい場合は書籍のページを用意しています。

幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ


幕末の始期・終期をめぐる見方と出来事の一覧は、Wikipedia「幕末」および同項目が引く各史料をもとにまとめました(2026年8月24日確認)。