勝海舟(かつ かいしゅう)は、幕末の幕臣で、のちに明治政府の初代海軍卿を務めた人物です。
長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で太平洋を渡り、江戸幕府最後の陸軍総裁として江戸城の無血開城をまとめました。
西郷隆盛との会談で江戸を戦火から救った人物として知られています。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、大沢たかおさんが演じます。
勝海舟とは|3行でまとめると
- 幕府の海軍を一から作った実務家。咸臨丸で太平洋を渡った一行の指揮官
- 戊辰戦争で徹底抗戦ではなく恭順を選び、西郷隆盛との交渉で江戸城を明け渡した
- 明治後は新政府に出仕し、初代海軍卿・参議・伯爵となった
同じ幕臣でありながら抗戦を主張して斬られた小栗忠順とは、しばしば対で語られます。
名前と呼び名
- 諱(本名): 義邦(よしくに)
- 幼名・通称: 麟太郎(りんたろう)
- 号: 海舟
「勝麟太郎」で検索されることが多いのは、若い頃の通称だからです。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
麟太郎、海舟、義邦。ひとりで名前がいくつもあるのは分かりにくいだろうね。
勝海舟
麟太郎は若いころの通称、義邦が本名、海舟は号だ。同じ人間だよ。もっとも、そちらも忠順に上野介に又一と、人のことは言えまい。
明治後は「安芳(やすよし)」と名乗りました。
山岡鉄舟・高橋泥舟とあわせて「幕末の三舟」と呼ばれます。
生涯年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 文政6年(1823年) | 江戸本所亀沢町(現・東京都墨田区両国)に生まれる |
| 天保9年(1838年) | 父の隠居により家督を相続。40俵扶持 |
| 安政2年(1855年) | 長崎海軍伝習所へ。海軍伝習重立取扱となる |
| 安政7年(1860年) | 咸臨丸で品川を出航、サンフランシスコへ |
| 文久2年(1862年) | 軍艦奉行並に就任 |
| 元治元年(1864年) | 軍艦奉行。従五位下・安房守に叙任。同年11月に罷免 |
| 慶応2年(1866年) | 軍艦奉行に復職 |
| 慶応4年(1868年) | 陸軍総裁。西郷隆盛と会談し江戸城無血開城 |
| 明治6年(1873年) | 参議・初代海軍卿に就任 |
| 明治32年(1899年) | 死去。享年77 |
生い立ち|貧しい旗本の家に生まれた
勝家は天正3年(1575年)以来の御家人で、高祖父の代に旗本へ列した古参の幕臣です。
ただし家格は低く、家督相続時の扶持は40俵でした。
父は勝小吉。男谷平蔵の三男で、勝家へ婿養子に入った人物です。
自伝『夢酔独言』を残した破天荒な人物として、単独でもよく知られています。
曽祖父は越後の貧農に生まれた盲人で、江戸に出て高利貸しで財を成し、盲官の最高位である検校を買って「米山検校」を名乗りました。
その財で御家人の株を買ったところから勝家との縁が始まっています。
低い身分から実力で這い上がったという点が、勝海舟という人物を理解する土台になります。
生まれながらの上級旗本だった小栗忠順とは、出発点からして違いました。
咸臨丸でアメリカへ
安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節が派遣されます。
勝海舟は、その護衛艦として同行した咸臨丸を指揮しました。
- 1月13日 品川を出航
- 2月26日 サンフランシスコ入港
- 5月6日 品川沖へ帰着
このとき本隊のポーハタン号に乗っていたのが、目付の小栗忠順です。
二人は同じ航海でアメリカへ渡っています。
咸臨丸には通訳としてジョン万次郎(中濱万次郎)も乗り組んでいました。
坂本龍馬との関係
勝海舟が神戸に海軍操練所を開くにあたり、先行して私塾を始めました。
薩摩や土佐の脱藩者が塾生として出入りし、その塾頭が坂本龍馬でした。
「龍馬が勝を斬りに行って、逆に弟子になった」という逸話は広く知られています。
ただし確かな裏づけはありません。勝の日記に龍馬の名が出るのは文久2年12月29日付が最初で、それ以前の交流は分かっていないためです。
有名な話ではありますが、史料で確認できるのは「塾頭だった」ところまでです。
江戸城無血開城|西郷隆盛との会談
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、新政府軍が東へ進みます。
3月13日と14日、勝海舟は新政府軍の西郷隆盛と会談しました。
江戸城総攻撃が予定されていた3月15日の直前です。
この交渉によって江戸での市街戦は回避され、150万人といわれた江戸の住民の生命と財産が戦火をまぬがれました。
勝は交渉にあたり、幕府側についていたフランスに対抗するため、新政府側を援助していたイギリスを動かしています。
イギリス公使パークスに新政府側へ圧力をかけさせるという、外交を使った駆け引きでした。
会談に先立って駿府へ向かったのは、徳川慶喜の使者となった山岡鉄舟です。
勝は鉄舟に、西郷宛の書を託しています。
小栗忠順と入れ替わった3日間
ここが、勝海舟と小栗忠順を対で語る理由です。
慶応4年1月、徳川慶喜は新政府への恭順を選びます。
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1月14日 | 徹底抗戦を主張していた小栗忠順が罷免される |
| 1月17日 | 勝海舟が海軍奉行並に昇進 |
| 1月23日 | 勝海舟、陸軍総裁へ |
小栗が外された3日後に、勝が上がっています。
これは偶然ではなく、慶喜が「戦う」から「恭順する」へ舵を切ったことの表れです。
罷免された小栗は領地の権田村(現・群馬県高崎市倉渕町)へ引き、そこで新政府軍に捕らえられ、取り調べもないまま斬られました。
一方の勝は江戸城を明け渡し、明治政府で海軍卿となります。
同じ幕臣で、同じ航海でアメリカを見て、まったく逆の結末を迎えた二人でした。
明治以降
明治6年(1873年)、勝海舟は参議および初代海軍卿に就任します。
のちに元老院議官、枢密顧問官を務め、伯爵を授けられました。
晩年の談話をまとめた『氷川清話』は、勝の語り口をそのまま伝える読み物として今も読まれています。
小栗忠順についても、この中で語り残しています。
明治32年(1899年)に死去。享年77でした。
家族
- 父: 勝小吉
- 母: 信(勝元良の娘)
- 妹: 順子 — 夫は佐久間象山
- 長男: 勝小鹿
「勝海舟の妹」で検索されるのは、その夫が思想家の佐久間象山だからです。
象山は開国論を早くから唱え、吉田松陰らに影響を与えた人物で、勝とは義理の兄弟にあたります。
嫡男の小鹿が勝より先に亡くなったため、小鹿の長女に旧主・徳川慶喜の十男を婿養子として迎え、家督を継がせました。
大河ドラマのなかの勝海舟
1974年には『勝海舟』として主人公になっています(主演は渡哲也さん、のち松方弘樹さんへ交代)。
2027年の『逆賊の幕臣』では、大沢たかおさんが演じます。
今回は主人公ではなく、小栗忠順の側から見た勝海舟が描かれることになります。
よくある質問
勝海舟は何をした人ですか
幕府の海軍を作り、咸臨丸で太平洋を渡り、江戸城の無血開城をまとめた幕臣です。
明治後は新政府の初代海軍卿となりました。
勝麟太郎と勝海舟は同じ人ですか
同じ人です。麟太郎は幼名・通称、海舟は号、本名は義邦です。
坂本龍馬とはどういう関係ですか
勝が神戸で開いた私塾の塾頭が坂本龍馬でした。
「斬りに来て弟子になった」という逸話は有名ですが、確かな裏づけはありません。
西郷隆盛との会談はいつですか
慶応4年(1868年)3月13日と14日です。江戸城総攻撃の予定日だった3月15日の直前でした。
小栗忠順とはどういう関係ですか
同じ幕臣で、1860年の遣米使節では同じ航海に加わっています。
ただし戊辰戦争では小栗が抗戦、勝が恭順を主張して対立しました。
妹は誰と結婚しましたか
妹の順子は、思想家の佐久間象山と結婚しています。
もっと深く知りたい場合は、幕末の人物をまとめた事典と、書籍のページがあります。