兵庫商社(ひょうごしょうしゃ)は、幕末に小栗忠順が設立を建議した貿易商社です。

出資者は大坂の商人20人、資本は100万両。
役員と定款を備えていたことから、日本初の株式会社と呼ばれています。

ただし「日本初」については海援隊を挙げる説もあり、設立年も資料によって割れています。
どこまでが確かで、どこが揺れているのかを分けて見ていきます。

兵庫商社とは|3行でまとめると

  • 兵庫(神戸)の開港に合わせ、小栗忠順が幕府へ設立を建議した貿易商社
  • 大坂商人20人から100万両を出資させ、頭取・肝煎り・世話役という役員構成を持った
  • 設立からまもなく明治維新の動乱で解散した

なぜ商社が必要だと考えたのか

小栗が幕府に出した建議書の趣旨は、東善寺(小栗の墓所)が原文を引いて紹介しています。

要点は3つです。

  1. 長崎・横浜を開いてきたが、西洋各国が港を開いて国の利益を得ているのに対し、日本は開港するたびに国の損になっている
  2. 原因は、商人組合のやり方をとらず、薄元手(小資本)の商人が一人ずつの損得で貿易しているから。元手厚(大資本)の外国人に利権を奪われる
  3. だから「外国人と取引するには、外国貿易の商社(西洋名コンパニー)のやり方に基づかなくては、とても国の利益にはならない」

商人一人の損失ではなく、結局は国の損失になり、ついに全国の利権を失う、という危機感が書かれています。

後世の解説でも同じ趣旨が、資本の少なさから日本の商人が海外貿易で不利益を被っており、その解決には大資本の商社が必要だという認識にもとづくもの、と整理されています。

発想の元はパナマ鉄道

東善寺は、この構想の下敷きとして万延元年(1860年)の遣米使節を挙げています。

小栗は使節の目付として渡米する途中、パナマ鉄道で鉄道会社の仕組みについて説明を受けました。
パナマ鉄道は株式会社の手法で建設・運営されていた事業です。

つまり、見てきた仕組みを7年後に日本へ持ち込もうとした、という位置づけになります。

なお、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗だとする説もあります(『広辞苑』第六版)。

→ 小栗忠順とは何をした人か|生涯をわかりやすく解説

100万両をどう集めたか

仕組みの細かいところは、東善寺の解説が一番具体的です。

項目 内容
出資者 大坂商人20人
資本 100万両
出資を促した仕掛け ただ出資させるだけでは商人は動かないので、同額の金札発行を許可し、利益が出るようにした
役員 頭取は山中善右衛門(鴻池屋)ら3名
肝煎り 商人6名
世話役 残りの11名
事務所 商社会所(大坂中之島の西端)

大坂の有力商人から100万両の出資を受けて設立されたと伝えられており、100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものだったと評されています。

「同額の金札発行を許可する」という部分が、この計画のいちばん実務的なところです。
出資を義務として押しつけるのではなく、出した側に儲けが出る形を先に用意しています。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

三野村利左衛門

三野村利左衛門

大坂の旦那衆から百万両。よくぞ出させましたな。

小栗忠順

小栗忠順

ただ出せと申しても、商人は動かぬ。同じ額の金札を出すことを許して、出した側に儲けが立つ形を先に作った。押しつけでは百万両は集まらぬよ。

集められた側は何を言われたか

東善寺は『神戸市史』別録一(44頁)から、御用掛の一員だった嘉納次郎作についての記述を引いています。

それによると、六月に商社設立が実行に移された際、14日に商社の諸役を大阪総会所へ招き、「商人一人の私利を旨とせず、西洋商人より高利の金銭を借らず、協同一致して貿易の盛大を図るべし」と諭したとされています。

なお、この嘉納次郎作は柔道の嘉納治五郎の父で、廻船業を営んでいた人物です。

設立の年が資料で割れている

ここは注意が必要な点です。
設立年について、資料の記述が一致していません。

資料 建議書の提出 設立
小栗忠順の経歴をまとめた資料(本文) 慶応3年(1867年) 慶応3年
同じ資料の役職履歴(年表) 慶応2年(1866年)4月 慶応2年6月5日
東善寺 慶応3年(1867年) 慶応3年6月5日に発表/本文は「慶応三年末に設立」

日付の「6月5日」は一致していますが、年が慶応2年と慶応3年に割れています。
同じ資料の中でも、本文と年表で年が違います。

さらに東善寺のページの中でも、坂本藤良の引用が「設立が発表された時(慶応三年六月五日)」としている一方、東善寺自身の解説は「兵庫商社は慶応三年末に設立された」と書いています。

建議・発表・開業のどこを「設立」と呼ぶかで違いが出ている可能性はありますが、資料上ではそこまで書き分けられていません。
どれが正しいかは、ここでは決められません。

三野村利左衛門

三野村利左衛門

設立の年が、書物によって慶応二年とも三年とも書かれております。

小栗忠順

小栗忠順

建議、発表、開業。どこを設立と呼ぶかで違うのかもしれぬが、そこまで書き分けた資料が無い。六月五日という日付だけは揃っておる。決められぬところは、決められぬと書いておくのがよい。

「日本初の株式会社」は海援隊ではないのか

「日本初の株式会社」を検索すると、坂本龍馬の海援隊が出てくることがあります。

実はこの2つは、同じ研究者の中で入れ替わった経緯があります。

東善寺によれば、「坂本竜馬の海援隊が日本最初の株式会社」と名付けたのは経済学者の坂本藤良でした。
その坂本氏はその後、何度も東善寺を訪れて小栗の業績を調査し、こう述べたとされています。

  • 「小栗上野介の兵庫商社のほうがもっと早くに役員・定款を備えたきちんとした会社であることがわかった」
  • 「兵庫商社こそ日本最初の株式会社である、というのが、現在の私の考え方である」

さらに坂本氏は、特別に重要なことだけを記している『海援隊日史』に兵庫商社の設立が記されていることを挙げ、それが海援隊の受けたショックを示していると評しています。

つまり「海援隊が日本初」という説を出した本人が、後に兵庫商社へ考えを改めた、ということです。

ただし、これは坂本藤良という一人の研究者の見解であり、しかも東善寺という顕彰する立場のサイトを通じて紹介されているものです。
学界全体の結論として「兵庫商社が日本初で確定した」と言えるかどうかは、この材料だけでは判断できません。

判断の材料になるのは、次の2点です。

  • 役員(頭取・肝煎り・世話役)と定款を備えていたこと
  • 資本が100万両で、当時の他の会社を大きく上回っていたこと

なお、坂本藤良は『小栗上野介の生涯 「兵庫商社」を創った最後の幕臣』(講談社、1987年)という評伝も書いています。

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

なぜすぐ消えたのか

兵庫商社は、設立からまもなく明治維新の動乱によって解散しました。

慶応3年10月14日に徳川慶喜が大政奉還し、翌慶応4年1月には鳥羽・伏見の戦いが始まります。
そして小栗自身が慶応4年1月15日に勘定奉行を罷免されました。

後ろ盾を作った本人が幕府から外され、幕府そのものが解散したため、商社を続ける枠組みが残らなかったということです。

同じ時期、小栗は新潟の港に船会社を興す構想も進めていました。
地域の物産を運んで外国人に販売し、資本家だけでなく農民や工芸職人もうるおう「国民利福」の道を探る、という趣旨だったと東善寺は紹介しています。
これも罷免によって幻に終わりました。

なお、兵庫商社の設立を小栗とともに推進した元若年寄の塚原昌義は、維新のあと身の危険を感じてアメリカへ亡命しています。

兵庫商社の前後にあった「日本初」

小栗が同じ時期に手がけた事業には、ほかにも「日本初」が並びます。

  • 築地ホテル館 — 日本初の本格的ホテル。慶応3年8月着工、慶応4年8月完成。清水喜助らが建設し、明治5年(1872年)の銀座の大火で焼失した
  • 横浜仏語伝習所 — 日本初のフランス語学校
  • 横須賀製鉄所 — 職務分掌・雇用規則・洋式簿記・月給制などを日本へ持ち込む舞台になった

築地ホテル館では、「1口100両で年百両の配当」という触れ込みで清水喜助が出資者を募ったとされます。
あまりに大きな話だったため「山師の仕事」とも評されたと東善寺は書いています。

→ 築地ホテル館とは|小栗忠順が作った日本初の本格ホテル

よくある質問

日本初の株式会社はどこですか

小栗忠順が設立を建議した兵庫商社を挙げる説と、坂本龍馬の海援隊を挙げる説があります。
「海援隊が日本初」と名付けた経済学者の坂本藤良が、後に兵庫商社のほうが役員・定款を備えた会社だったとして考えを改めた、という経緯があります。

兵庫商社の資本金はいくらですか

100万両です。
大坂商人20人が出資しました。
当時設立されていた株式会社の中では、大きく抜きん出た金額とされています。

兵庫商社はいつ設立されましたか

日付は6月5日で資料が一致していますが、年は慶応2年(1866年)とするものと慶応3年(1867年)とするものに割れています。
同じ資料の中でも、本文は慶応3年、役職履歴の年表は慶応2年と書かれています。

兵庫商社はどこにあったのですか

事務所は「商社会所」と呼ばれ、大坂中之島の西端に置かれました。
兵庫(神戸)の開港に合わせた商社ですが、拠点は大坂です。

兵庫商社はいまも残っていますか

残っていません。
設立からまもなく明治維新の動乱によって解散しました。


幕末の流れ全体を確認したい場合は、年表のページがあります。

→ 幕末とは|年表と流れをわかりやすく解説


設立の趣旨・出資構成・役員構成は東善寺「日本最初の株式会社 兵庫商社・江戸の築地ホテル・小布施の船会社」をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。東善寺は小栗を顕彰する立場のため、坂本藤良の見解や評価にあたる部分は出所を明示して分けています。

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