黒船来航は、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の午後5時、浦賀沖に4隻の軍艦が現れた出来事です。
率いていたのはアメリカ東インド艦隊の代将マシュー・ペリー。
翌年ふたたび来航して日米和親条約が結ばれ、200年あまり続いた鎖国は終わりました。
ただ、よく言われる「突然の不意打ちで幕府が慌てた」という話は、正確ではありません。
幕府は前の年から、ペリーが来ることを名前まで知っていました。
このページでは、そこも含めて開国までの流れを追います。
黒船とは何だったのか
浦賀に現れた4隻のうち2隻は、帆だけでなく蒸気機関と外輪でも走る船でした。
黒く塗られた船体が帆船を引っぱりながら、煙突から煙を上げている——その様子から「黒船」と呼ばれました。
| 艦名 | 種類 | 建造年 |
|---|---|---|
| サスケハナ(旗艦) | 蒸気外輪フリゲート | 1850年 |
| ミシシッピ | 蒸気外輪フリゲート | 1841年 |
| サラトガ | 帆走スループ | 1843年 |
| プリマス | 帆走スループ | 1844年 |
大砲は4隻あわせて73門。日本側からの襲撃を警戒し、臨戦態勢をとっていました。
浦賀は、いまの神奈川県横須賀市です。
のちに小栗忠順が造船所を建てる場所と、目と鼻の先でした。
なぜアメリカが来たのか
理由は3つあります。どれも日本と貿易がしたかったというより、太平洋を渡るための都合でした。
① 捕鯨船の補給地がほしかった
当時、工場やランプの油としてマッコウクジラの鯨油が使われていました。
日本近海は好漁場で、アメリカ東海岸から来る捕鯨船は1年以上の航海になります。
船の上で鯨油を煮出すため大量の薪と水が要り、太平洋に補給拠点が必要でした。
② 清との貿易に出遅れていた
イギリスやフランスはすでにインドや東南アジアに拠点を持っていました。
アメリカは1844年に清と条約を結んだものの、後発です。
③ 太平洋国家になった
1846年から1848年の米墨戦争でカリフォルニアを得たことで、アメリカは太平洋に面する国になりました。
西海岸から清へ向かう最短の航路は、アリューシャン列島から千島列島沿いに南下し、津軽海峡と対馬海峡を抜けるものです。
その途中に補給地がほしい——これが箱館(函館)開港につながります。
幕府はペリーが来ることを知っていた
長崎のオランダ商館は、幕府に「別段風説書」という海外情勢の報告書を毎年出していました。
- 1850年の報告 … 捕鯨業者の働きかけで、アメリカ議会に日本を開国させる議論が起きている
- 1852年の報告 … 翌春以降、ペリーが率いる蒸気軍艦が来る。艦名まで書かれていた
この情報は老中首座の阿部正弘から、彦根の井伊家、会津の松平家などの譜代大名へ伝えられ、年の暮れには薩摩の島津斉彬にも知らされています。
ただし幕府内では秘密にされ、浦賀奉行所の現場の組頭や与力には知らされていませんでした。
情報を持っていた人と、実際に船に乗り込んで交渉する人が、別だったわけです。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
徳川斉昭
不意を突かれて幕府が慌てた、という話になっておるが。
阿部正弘
前の年の別段風説書に、ペリーの名も艦のことも書いてありました。ただ幕府の内で伏せておりましたので、浦賀奉行所の組頭や与力は知らされていない。知っていた者と、船へ乗り込んで応対する者が別だったのです。
浦賀での4日間
来航してから久里浜に上陸するまで、6日間のやりとりがありました。
| 日付(西暦/和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 7月8日/6月3日 | 4隻が浦賀沖に投錨 |
| 7月9日/6月4日 | 与力の香山栄左衛門が「浦賀奉行」と称して交渉。親書は最高位の役人にしか渡さないと拒まれる |
| 7月11日/6月6日 | 測量艇が江戸湾を20キロほど北上。幕府に衝撃が走る |
| 7月12日/6月7日 | 幕府が国書の受領を決める |
| 7月14日/6月9日 | ペリーが久里浜に上陸。大統領フィルモアの親書を手渡す |
最初に船へ向かった与力の中島三郎助は「副奉行」と名乗りましたが、身分が低すぎるとして親書を預かれませんでした。
ペリーは「高い身分の役人を出さなければ、兵を率いて上陸し、将軍に直接渡す」と迫っています。
久里浜での会見で幕府は「将軍が病気で決められない」として1年の猶予を求め、ペリーは「返事を聞きに1年後に戻る」と告げて去りました。
このとき外交上の交渉は何も行われていません。 文書を受け渡しただけです。
日本側の全権だった浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道は、会見のあいだ一言も発しませんでした。
見物人が押し寄せた
深刻な話ばかりではありません。
来航の翌日には浦賀に見物人が集まりはじめ、翌々日には江戸からも客が殺到しました。
小舟を勝手に出して船に近づく者までいます。
佐久間象山と吉田松陰も、この見物に出かけています。
松陰は師の象山と黒船を遠くから観察し、西洋の文明に衝撃を受けました。
この体験が、翌年の密航未遂につながっていきます。
アメリカ側が独立記念日の祝砲などで空砲を撃つと、最初は江戸が大混乱になりましたが、空砲だとわかると町民は花火のように喜んだと伝えられます。
このころ詠まれたのが、有名な狂歌です。
泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず
上喜撰は緑茶の銘柄で、蒸気船とかけています。
作者については間部詮勝とする説がありますが、確定していません。
ペリーが去ってからの半年が速い
去り際の「1年後に戻る」という言葉を、幕府は無駄にしませんでした。
| 日付(和暦) | 動き |
|---|---|
| 6月19日 | オランダへ艦船を発注(ペリー退去のわずか1週間後) |
| 6月22日 | 将軍・徳川家慶が死去 |
| 7月1日 | 阿部正弘が、大名から庶民まで広く外交の意見を求める |
| 7月23日 | 江川太郎左衛門らに台場の造営を命じる |
| 9月19日 | 洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工 |
| 11月7日 | アメリカ帰りのジョン万次郎を旗本格で登用 |
台場は当初、富津から観音崎までなど4本の防御ラインが提案されましたが、予算と工期の都合で品川沖に11か所を造ることになりました。
大船を造ってはならないという禁令も、このとき解かれています。
一方で、阿部が広く意見を求めたことには副作用がありました。
名案は出ず、代わりに「国政は幕府だけで決めず合議で」という公議輿論の考えが広まります。
結果として、幕府の権威はここから下がっていきました。
徳川斉昭
大名から庶民まで広く意見を募ったのは、そなたであったな。
阿部正弘
名案は出ませんでした。代わりに、国政は幕府だけで決めるものではないという考えが広まったのです。あれ以降、幕府の権威は下がっていきます。
開国|日米和親条約で何が決まったか
ペリーは約束より早く、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来航します。
最終的に9隻が江戸湾に集まりました。
条約が結ばれたのは1854年3月31日(嘉永7年3月3日)。
日本側の全権は林復斎(大学頭)でした。
決まった内容は、次のとおりです。
- 下田と箱館(函館)の2港を開く
- ただし通商(貿易)はしない
- 遭難した船や乗員を助ける
つまり和親条約は、貿易の約束ではありません。
「港には寄らせるが、商売はさせない」という線引きでした。
日本が外国と結んだ最初の条約であり、これで鎖国は終わります。
貿易が始まるのは4年後、1858年の日米修好通商条約からです。
吉田松陰の密航未遂
再来航のとき、吉田松陰は金子重之輔とともに下田へ向かいました。
海の外を自分の目で見るためです。
1854年3月27日の夜、柿崎の弁天島あたりから小舟を出し、ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗り込みました。
しかし乗船は拒まれ、海岸へ戻されます。
2人は発覚を覚悟して自首し、投獄されました(下田渡海事件)。
幕府内には象山と松陰を死罪にする動きもありましたが、川路聖謨の働きかけと、阿部正弘・松平忠固の反対で助命され、国もとでの蟄居となります。
松陰が松下村塾を開くのは、この3年後のことでした。
黒船のとき、小栗忠順は何をしていたか
黒船が来た嘉永6年、小栗忠順は数えで27歳。
進物番出役に登用され、13代将軍となる徳川家定の近くに仕えていました。
その後は、来航する異国船に対処する詰警備役につきます。
翌年には浜御殿(現在の浜離宮)の警備も担当しました。
このとき幕府が持っていたのは、戦国時代から続く関船です。
蒸気で走る軍艦を相手に、対等な交渉ができる状態ではありませんでした。
小栗が外国との積極的な通商を主張し、造船所を造るという発想を持ったのはこのころだと言われています。
のちに横須賀製鉄所として実現するその構想は、黒船を目の前で見た経験から始まっていました。
よくある質問
黒船来航はいつですか
1853年7月8日、和暦では嘉永6年6月3日です。午後5時に浦賀沖へ4隻が現れました。
黒船は何隻来たのですか
1853年は4隻です。翌1854年の再来航では、最終的に9隻が江戸湾に集まりました。
なぜ「黒船」と呼ぶのですか
船体が黒く塗られていたためです。
蒸気機関と外輪で走り、煙突から煙を上げる姿が、それまでの帆船と大きく違いました。
開国はいつですか
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)の日米和親条約で、下田と箱館の2港が開かれました。
ただし貿易が始まるのは1858年の日米修好通商条約からです。
吉田松陰は黒船を見たのですか
見ています。1853年の来航のとき、師の佐久間象山と一緒に遠くから観察しました。
翌年には下田で密航を試み、失敗して投獄されています。
幕府は黒船が来ることを知らなかったのですか
知っていました。
前年の1852年に、オランダ商館の報告書でペリーの名前と艦隊の情報が伝えられています。
黒船来航をきっかけに動きだした人々は、事典のページにまとめています。
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