西郷隆盛は、幕府を倒した側の中心にいた人物です。
1868年(慶応4年)に江戸へ攻め上った新政府軍——東征大総督府の実質的な参謀が、西郷でした。
その2か月後、群馬の権田村で小栗忠順が斬首されます。
小栗を捕らえて斬ったのは、西郷が属した新政府軍の別動隊にあたる東山道軍でした。
このページでは、西郷隆盛の生涯を追いながら、小栗の死との距離がどれくらいだったのかまで確認します。
ここは誤解されやすいところなので、先に事実だけ書いておきます。
西郷が小栗の処刑を命じたという記録は、確認されていません。
西郷隆盛とはどんな人物か
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没 | 1828年1月23日(文政10年12月7日)〜 1877年(明治10年)9月24日 |
| 出身 | 薩摩国鹿児島郡加治屋町(現・鹿児島市) |
| 身分 | 薩摩藩の下級武士 |
| 体格 | 身長約180cm・体重約105kgと伝わる |
| 主な役 | 東征大総督府下参謀、参議、陸軍大将 |
| 最期 | 西南戦争に敗れ、鹿児島の城山で自害。享年51(満49歳没) |
下級武士の家に生まれ、家督を継いだときの禄は41石余でした。
そこから幕府を倒す側の中心にまで進み、最後は明治政府に反乱を起こして死ぬ——という生涯です。
歴史の西郷隆盛は「大きな人」というイメージで語られがちですが、実際の記録を読むと、転落と復帰を何度も繰り返しているのがわかります。
「隆盛」は本人の名前ではない
いきなり細かい話ですが、これは知っておくと面白いところです。
西郷の諱(いみな=本名)は隆永でした。
「隆盛」は、父・西郷吉兵衛の諱です。
明治2年8月、維新の功で正三位が贈られることになり、文書に諱を書く必要が出ました。
ところが本人は箱館戦争を終えて薩摩へ帰る船の上。
政府の役人が同郷の吉井友実に尋ねたものの、吉井はいつも「吉之助」と呼んでいたので思い出せず、頭に浮かんだ「隆盛」を伝えてしまった——という経緯です。
以後、本人もその名を使いました。
つまり現在われわれが呼んでいる「西郷隆盛」は、取り違えがそのまま定着した名前ということになります。
呼び名では「西郷どん(セゴドン)」が知られますが、これは鹿児島弁で「西郷殿」。
最も敬意を込めた呼び方は「南洲翁」です。
島津斉彬に見出された
西郷の人生を変えたのは、島津斉彬でした。
「島津斉彬 西郷隆盛」で検索されるのは、この関係が西郷の出発点だからです。
1851年(嘉永4年)に斉彬が薩摩藩主になり、1854年(安政元年)、西郷は斉彬の江戸参勤に随行します。
4月に御庭方役となり、当代一の開明派大名だった斉彬から直接教えを受けるようになりました。
役目としては庭の管理係ですが、実際には藩主と直接話せる立場です。
下級武士がいきなり最高権力者の側近になったことになります。
橋本左内との出会い
1855年(安政2年)12月、越前藩士の橋本左内が訪ねてきて国事を語り合い、西郷はその博識に驚いています。
以後、二人は書簡を交わし、一橋慶喜を将軍継嗣に立てる運動をともに進めました。
「橋本左内 西郷隆盛」という検索がある背景には、この短い共闘があります。
左内は安政の大獄で処刑され、この協力関係は数年で終わりました。
斉彬の急死と、月照との入水
1858年(安政5年)、井伊直弼が大老に就き、慶喜擁立派への弾圧が始まります。
そして7月16日、島津斉彬が急死しました。
西郷は殉死しようとしますが、僧の月照らに説得され、思いとどまります。
しかしその年の11月、幕府の追及を恐れた薩摩藩当局が月照を追放の名目で斬り捨てようとしたため、西郷は月照とともに竜ヶ水沖で入水しました。
月照は死亡し、西郷だけが蘇生します。回復には1か月近くかかりました。
藩は西郷を死んだものとして扱い、墓まで作って幕府の捕吏に見せています。
その後、西郷は奄美大島へ、さらに島津久光と折り合わず沖永良部島へと、二度島流しにされました。
復帰できたのは、家老の小松帯刀と、幼なじみの大久保利通の後押しがあったからです。
幕末の西郷隆盛|倒幕までの動き
復帰後の西郷は、幕末の政局の中心に立ち続けます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1864年(元治元年) | 禁門の変で活躍 |
| 1866年(慶応2年) | 薩長同盟の成立 |
| 1867年12月(慶応3年) | 王政復古の大号令 |
| 1868年1月(慶応4年) | 鳥羽・伏見の戦い。伏見・八幡の戦線を視察 |
| 1868年2月14日 | 東征大総督府下参謀に任じられる |
| 1868年2月28日 | 独断で先鋒軍を率いて東海道の要衝・箱根を占領 |
大政奉還のとき、西郷はこれを「武力討幕のシグナル」と位置づけていました。
慶喜が政権返上を受け入れるとは信じていなかったのです。
大政奉還が実現するといったん武力討幕を中止しますが、実態が「慶喜と旧幕府機構の横滑り」でしかないと確認すると、岩倉具視と組んで王政復古のクーデターへ動きます。
なお、東征大総督に任じられたのは有栖川宮熾仁親王で、参謀は公家が務めました。
西郷の「下参謀」は、その下で実質的に軍を動かす役です。
江戸無血開城|先に会ったのは山岡鉄舟だった
江戸城の明け渡しは「西郷と勝海舟の会談で決まった」と語られます。
半分は正しいのですが、その前に一人挟まっています。
山岡鉄舟が静岡へ来た
1868年3月9日、西郷は静岡で、徳川慶喜の使者である山岡鉄舟と会見しました。
ここで西郷は徳川処分案7か条を示しています。
「山岡鉄舟 西郷隆盛」で検索されるのは、この会見が江戸無血開城の下ごしらえにあたるためです。
交渉の枠組みは、勝との会談の前に静岡で作られていました。
勝海舟との会談
その後、大総督府から3月15日の江戸総攻撃命令を受けた西郷は、11日に江戸へ入り、池上本門寺に本陣を置きます。
そして3月13日と14日、勝海舟と会談しました。
ここで押さえておきたい事実があります。
「江戸城明け渡し」は、すでに新政府の既定方針でした。
薩摩藩の後ろ盾だったイギリスが、貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたためです。
橋本屋での2回目の会談で徳川処分案を預かった西郷は、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍へ伝えるよう命じ、自身は静岡へ戻って大総督に勝案を示し、さらに京都へ赴いて朝議の了承を得ました。
江戸城の明け渡しは4月11日。戦火は避けられました。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
勝海舟
おれとおまえさんの談判で江戸が焼けずに済んだ、と語られているがね。
西郷隆盛
明け渡しそのものは、談判の前から新政府の決めごとでごわした。後ろ盾のイギリスが、商いに障るとして総攻撃に反対しておりましたゆえ。あの二日で決めたのは、条件のほうでごわす。
小栗忠順を斬ったのは誰だったのか
ここが、このサイトとして一番はっきりさせておきたい部分です。
小栗忠順は1868年(慶応4年)1月に幕府の役職をすべて解かれ、2月末に江戸を出て、3月1日に上野国権田村(現・群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺へ入りました。
そして閏4月4日に捕縛、閏4月6日の午前11時ごろ、取り調べもされないまま斬首されます。享年42。
| 項目 | 記録に残っていること |
|---|---|
| 捕縛・処刑の主体 | 東山道軍の命を受けた軍監 |
| 軍監 | 豊永貫一郎、原保太郎 |
| 実行部隊 | 高崎藩・安中藩・吉井藩の兵 |
| 場所 | 烏川の水沼河原(現・高崎市倉渕町水沼) |
| 西郷の関与 | 処刑を命じたという記録は確認されていない |
西郷は東征大総督府の下参謀で、東山道軍にも命令を出せる立場でした。
実際、3月には勝との交渉を受けて「総攻撃中止」を東山道軍へ伝えるよう命じています。
しかし、小栗の捕縛・処刑については、西郷の指示を示す記録が出てきません。
現地では斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、沙汰書が届いたのは斬首の翌日だったという説も伝えられています。
つまり、「西郷隆盛が小栗忠順を殺した」と書くのは正確ではありません。
正確に言えば、西郷が中心にいた新政府軍という組織が、現地の判断で小栗を斬ったということになります。
勝海舟
小栗を斬らせたのはおまえさんだ、と書いてあるものを見かけるよ。
西郷隆盛
わしが命じたという記録は出ておりもはん。捕らえて斬ったのは東山道軍、軍監は豊永と原でごわす。総攻撃を止めよと下知した記録は残っておりますが、あの一件については何も残っておらんとです。
小栗が斬られた理由そのものについては、別のページで詳しく扱っています。
西郷隆盛は小栗忠順をどう見ていたか
敵側からの評価が残っています。
西郷は小栗のことを、「偉大なる権謀家」と評しました。
同じく新政府側の大村益次郎は、小栗が江戸城の評定で示した挟撃策を後に聞いて「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」と述べています。
倒した側が、倒した相手の能力を認めていたわけです。
写真が1枚も残っていない
大久保利通をはじめ、維新の立役者の写真は数多く残っています。
ところが西郷の写真は、現在まで1枚も確認されていません。
明治天皇から写真を求められた際も、断っています。
理由は写真嫌いだったからとも、顔が知られて暗殺されることを恐れたからとも言われますが、はっきりしません。
いま広く知られているあの顔は、1883年にエドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画です。
しかもキヨッソーネは西郷と一度も会っていません。
- 顔の上半分 … 実弟の西郷従道
- 顔の下半分 … 従弟の大山巌
この2人を合成し、西郷を知る親戚関係者の考証を得て仕上げたものです。
肖像に不満を持った人もいました。
生前の西郷と面識があった板垣退助は、上野公園に建立された銅像に納得がいかず、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせています。
2点が作られ、1点は明治天皇の天覧を経て妻の西郷糸子へ渡りましたが、いずれも現在は行方不明です。
体格については記録があり、身長は五尺九寸八分(約180cm)、体重は二十八貫(約105kg)と伝わります。
陸軍大将の大礼服は、巡業に来た横綱が試着しても少しだぶつく大きさだったといいます。
その糸子は、夫についてこう語り残しています。
「相撲取りのような大きな体であったが、家の内を決して音を立てては歩かない人だった」
大久保利通との対立、そして西南戦争
幕末を並んで駆け抜けた大久保利通と西郷は、明治になって決裂します。
「大久保利通 幕末」で検索した人が驚くのは、たいていこの後半です。
1871年(明治4年)に参議として新政府へ復職した西郷は、陸軍大将・近衛都督を兼務しました。
しかし1873年(明治6年)、朝鮮との国交回復問題で、自ら使節として朝鮮へ赴くことを提案。
岩倉使節団から帰国した大久保らと対立し、明治六年政変で江藤新平・板垣退助らとともに下野します。
鹿児島へ戻った西郷は私学校で教育にあたりますが、1877年(明治10年)、私学校生徒の暴動から西南戦争が起こり、その指導者となりました。
9月24日午前4時、政府軍が城山を総攻撃します。
被弾した西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、東に向かって拝礼しながら首を打たせました。
死後十数年を経て名誉が回復され、正三位が贈られています。
土方歳三とはすれ違っている
「土方歳三 西郷隆盛」という検索もありますが、二人が戦場で相まみえた記録はありません。
土方歳三が箱館の一本木関門で戦死したのは、明治2年5月11日。
西郷が箱館戦争の応援として鹿児島を発ったのが同じ月の1日で、箱館へ着いたのは5月25日でした。
5月18日に五稜郭が開城しており、着いたときには戦争が終わっていたことになります。
『逆賊の幕臣』の西郷隆盛役は誰か
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、2026年10月の時点で西郷隆盛役は発表されていません。
発表済みなのは第8弾(2026年10月9日)までの32人で、そのなかに西郷は含まれていません。
物語は小栗忠順が主人公なので、西郷は終盤に登場する側の人物になります。
なお、勝海舟役は大沢たかおと発表済みです。
江戸無血開城の交渉相手が決まっているので、西郷役の発表は続報を待つことになります。
よくある質問
西郷隆盛は小栗忠順を殺したのですか
直接命じたという記録は確認されていません。
小栗を捕縛し斬首したのは東山道軍で、軍監は豊永貫一郎と原保太郎でした。
西郷は東征大総督府の下参謀として新政府軍の中心にいましたが、この処刑への関与を示す記録は出ていません。
西郷隆盛はなぜ江戸を攻めなかったのですか
江戸城の明け渡しは、会談の前から新政府の既定方針でした。
薩摩藩の後ろ盾だったイギリスが、貿易への影響を恐れて総攻撃に反対していたためです。
勝海舟との会談は、その方針を条件付きで確定させる場でした。
西郷隆盛の写真はありますか
ありません。現在まで1枚も確認されていません。
明治天皇に求められた際も断っています。
知られている肖像は、1883年にキヨッソーネが弟・西郷従道と従弟・大山巌の顔を合成して描いたものです。
西郷隆盛はどこで死んだのですか
鹿児島の城山です。
1877年(明治10年)9月24日、西南戦争の最終局面で被弾し、別府晋介に首を打たせて自害しました。享年51。
西郷隆盛と大久保利通はなぜ対立したのですか
1873年(明治6年)、朝鮮との国交回復問題がきっかけです。
西郷は自ら使節として渡ることを提案しましたが、岩倉使節団から帰国した大久保らと対立し、明治六年政変で下野しました。
西郷隆盛の本名は何ですか
諱は隆永です。
「隆盛」は父・吉兵衛の諱で、明治2年に正三位が贈られる際、代理で答えた吉井友実が取り違えたものがそのまま定着しました。
同じ時代を生きた人々は、事典のページからたどれます。
西郷側から見た幕末を本で追いたい場合は、書籍のページを用意しました。
キャストは NHK 公式のドラマ情報(第1弾〜第8弾)で確認しています(2026年10月11日確認)。