幕末の人物には肖像画しか残っていない人が少なくないなかで、
小栗忠順(おぐり ただまさ/小栗上野介)には写真が残っています。

理由ははっきりしています。
小栗は1860年(万延元年)に遣米使節としてアメリカへ渡っているからです。

ただし、「小栗上野介の写真」として広く出回っている一枚が、
いつ・どこで・誰に撮られたものなのかは、きちんと特定されていません。

この記事では、現存する画像を種類ごとに分け、分かっていることと分かっていないことを切り分けます。

現存する小栗忠順の写真

1|遣米使節3人の写真(1860年)

左から村垣範正、新見正興、小栗忠順が並ぶ写真です。
日米修好通商条約の批准書を交換するために渡米した、正使・副使・目付の3人にあたります。

撮影者や撮影場所を示した公的な記録は、確認できませんでした。
遣米使節としての渡米が1860年(万延元年)なので、この3人が並んだ写真もその時期のものと考えられますが、
いつ・誰が撮ったのかを裏づける公開情報は見つかっていません。

2|ワシントン海軍造船所での集合写真

横須賀市の観光情報サイトが「小栗忠順ゆかりの地 横須賀」のページで使っているのが、
ワシントン海軍造船所の遣米使節一行を撮った集合写真です。

同ページは、前列右から2人目が小栗上野介だと説明しています。

なお、この画像は無断転載・無断使用が禁止されています。
実物は横須賀市の公式ページで見てください。

3|単独の肖像写真

もっとも多く引用されているのが、羽織姿で椅子に腰かけた単独の肖像です。

国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」に、
小栗忠順のページ(生没年 文政10年〜慶応4年閏4月6日/1827年〜1868年5月27日)として収録されています。

撮影の経緯は特定されていない

ここが大事なところです。

この単独肖像について、国立国会図書館のページに載っているのは生没年と経歴の解説だけで、
撮影日も撮影者も、写真の出典も記載されていません。
小栗が亡くなったのは慶応4年(1868年)なので、それより前に撮られたことは確かですが、
公開されている情報から分かるのはそこまでです。

つまり、いつ・どこで撮られたのかを示す一次的な記録が、公開情報の側に揃っていません。

「渡米中にアメリカで撮影された」と説明されることがありますが、
それを裏づける記録は確認できませんでした。
撮影の経緯を断定して書いている記事を見かけたら、根拠が示されているかを確かめてください。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗道子

小栗道子

よく出回っているお写真は、渡米中にあちらで撮られたものだと説明されておりますね。

小栗忠順

小栗忠順

それを裏づける記録は見つかっていない。分かっているのは慶応四年より前ということと、撮った者が分からぬということだけだ。断りなく渡米中と書いてあるものは、根拠が添えてあるか確かめたほうがよい。

同じ使節団のなかでは、写真は珍しくなかった

とはいえ、この時期の使節団にとって写真館は身近な存在でした。

咸臨丸がサンフランシスコで修理のため停泊していたあいだ、
福沢諭吉は写真館へ出かけ、アメリカ人の少女と一緒に写真に写っています。

小栗が乗ったのはポーハタン号のほうですが、
使節一行が滞在先で撮影の機会を持っていたこと自体は、記録に残っています。

写真以外の肖像|胸像はどこにあるか

小栗上野介の「肖像」として実際に見に行けるのは、写真より胸像のほうです。
そして、この胸像には少し込み入った経緯があります。

きっかけは1915年(大正4年)の記念式典

東善寺の説明によれば、始まりは大正4年9月の横須賀海軍工廠創立50周年祝典でした。

式典では大隈重信総理大臣の代理が「小栗上野介が幾多の困難を乗り越えて着工…」と挨拶し、
小冊子『横須賀海軍船廠創設の由来及びその発達の梗概』と『小栗上野介末路事績』が配られます。

これによってヴェルニーと小栗の功績、そして小栗が斬殺された経過が公になりました。

海軍工廠の職工たちのあいだから胸像建立の声が上がり、市をあげての募金運動になります。

1922年(大正11年)に横須賀市で除幕

彫刻家朝倉文夫の制作で、大正11年9月、横須賀市で除幕式が行われました。
小栗の孫にあたる小栗又一や、市・海軍関係者が参列しています。

戦中の金属供出と、戦後の再建

第2次大戦中、金属供出によって小栗・ヴェルニー両方の胸像が失われます。
市は代わりに型どりしたセメント像を据えました。

戦後、東京藝術大学の内藤春治教授があらためて小栗とヴェルニーの像を制作し、
ドック対岸の臨海公園(現在のヴェルニー公園)に設置。
昭和27年(1952年)9月27日、小栗の死後84年目にあたる日に除幕式が行われました。

外されたセメント像は、東善寺の前住職の働きかけで横須賀市から倉田村(のちの倉渕村)へ贈られ、
東善寺境内の小栗の墓前に据えられます。これが現在の東善寺の胸像です。

小栗道子

小栗道子

横須賀と東善寺の両方に胸像があると聞きました。同じものが二つあるのですか。

小栗忠順

小栗忠順

別のものだ。戦のさなかに金属が供出されて、代わりに据えられたセメントの像が東善寺へ移った。横須賀のほうは戦のあとに作り直された像で、ヴェルニーと並んで立っている。

2年後には、吉田直・元海軍建築局長の遺志によって、
小栗の盟友栗本鋤雲の像が並べて建立寄進されました。

いま、どこで見られるか

場所 見られるもの
ヴェルニー公園(横須賀市)の小栗広場 ヴェルニーと並ぶ小栗上野介の胸像
ヴェルニー公園内の記念石 小栗が斬首された烏川水沼河原の石。昭和28年の開港祭を機に倉渕村から寄贈された
東善寺(高崎市倉渕町権田) 墓前のセメント製胸像と、栗本鋤雲の像
国立国会図書館「近代日本人の肖像」 単独の肖像写真
横須賀市観光情報「小栗忠順ゆかりの地 横須賀」 ワシントン海軍造船所での集合写真

ヴェルニー公園の公式サイトは、小栗広場の2体について
「近代日本の礎を築いた二人の姿は、今も日本の発展を願い、横須賀の海を見つめています」と書いています。

→ 小栗忠順を知るための本|入門から評伝まで20冊

よくある質問

小栗上野介の写真は何枚残っていますか

広く流通しているのは、遣米使節3人を撮った1860年の写真、ワシントン海軍造船所での集合写真、そして単独の肖像写真です。正確な総数を示した公開情報は確認できませんでした。

単独の肖像写真はいつ撮られたのですか

特定されていません。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」にも撮影日・撮影者の記載はなく、小栗が亡くなった慶応4年(1868年)より前に撮られたということしか分かりません。

遣米使節の写真は誰が撮ったのですか

分かっていません。撮影者を示した公的な記録は確認できませんでした。

小栗上野介の胸像はどこにありますか

横須賀市のヴェルニー公園(小栗広場)と、高崎市倉渕町の東善寺の2か所です。ヴェルニー公園の像は1952年に内藤春治が制作したもの、東善寺の像は戦中の金属供出後に横須賀市が据えていたセメント像です。

最初の胸像を作ったのは誰ですか

彫刻家の朝倉文夫です。1922年(大正11年)9月に横須賀市で除幕式が行われましたが、この像は第2次大戦中の金属供出で失われました。


小栗忠順という人物の全体像は、こちらから。

→ 幕末の人物|逆賊の幕臣に登場する人々

肖像資料は国立国会図書館「近代日本人の肖像」、集合写真は横須賀市観光情報、胸像と記念石はヴェルニー公園公式および東善寺「小栗上野介胸像物語」によります(2026年8月25日確認)。

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