徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府の15代将軍です。
徳川将軍15人のうち、最後の1人。だから「最後の将軍」と呼ばれます。
ただ、将軍でいた期間は1年足らずでした。
そして将軍を辞めた翌月、小栗忠順を役職から外したのも、この人です。
徳川慶喜とは|3行でまとめると
- 水戸藩主・徳川斉昭の七男。一橋家を継ぎ、慶応2年12月に15代将軍になった
- 在職は約1年。慶応3年10月に大政奉還を行い、12月に将軍職を辞した
- 幕府が倒れたあとも76歳まで生き、公爵・貴族院議員として大正2年に亡くなった
経歴の流れ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天保8年(1837年)9月29日 | 水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸・小石川の水戸藩上屋敷に生まれる |
| 弘化4年(1847年)9月1日 | 一橋家を相続 |
| 安政6年(1859年)8月27日 | 安政の大獄で隠居・謹慎・蟄居の処分 |
| 万延元年(1860年)9月4日 | 処分を解除される |
| 文久2年(1862年)7月6日 | 将軍後見職に就任 |
| 元治元年(1864年)3月25日 | 禁裏御守衛総督に転じる |
| 慶応2年(1866年)8月20日 | 徳川宗家を相続 |
| 慶応2年12月5日(1867年1月10日) | 二条城で将軍宣下。15代将軍に就任 |
| 慶応3年(1867年)10月14日 | 大政奉還 |
| 慶応3年12月9日(1868年1月3日) | 王政復古の大号令。征夷大将軍職を辞す |
| 慶応4年(1868年)1月3日〜 | 鳥羽・伏見の戦いに敗れ、6日に大坂城を脱出。12日に江戸着 |
| 慶応4年1月15日 | 小栗忠順を御役御免(勘定奉行・陸軍奉行並) |
| 慶応4年2月12日 | 上野・寛永寺大慈院で謹慎 |
| 慶応4年4月11日 | 江戸開城。官位を解かれる |
| 慶応4年7月23日 | 駿河の宝台院で謹慎 |
| 明治2年(1869年)9月28日 | 謹慎解除。10月に静岡へ移住 |
| 明治35年(1902年)6月3日 | 公爵を受爵し、徳川慶喜家を創設。貴族院議員に |
| 大正2年(1913年)11月22日 | 薨去 |
15代将軍になるまで
慶喜は将軍家の生まれではありません。
水戸藩主・徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮織仁親王の王女・登美宮吉子女王です。
11歳で御三卿のひとつ一橋家を相続し、将軍・徳川家慶から偏諱(名前の一字)を賜って「慶喜」と名乗りました。
その後の道のりは平坦ではありません。
- 13代将軍・家定の後継争いで担がれ、安政の大獄では隠居・謹慎・蟄居の処分を受ける
- 処分が解けたあと、将軍後見職・禁裏御守衛総督として京都で幕政の中心に立つ
- 慶応2年、14代将軍・家茂が大坂城で亡くなる
家茂の後継として老中たちに推されますが、慶喜はこれを固辞し続けました。
徳川宗家は慶応2年8月に相続したものの、将軍職の就任は拒み、同年12月5日にようやく二条城で将軍宣下を受けています。
宗家相続から将軍就任まで、3か月半ほど空いているわけです。
徳川慶喜は何をした人か|将軍だったのは1年足らず
将軍在職は、慶応2年12月5日(1867年1月10日)から慶応3年12月9日(1868年1月3日)まで。
1年に少し足りません。
そして慶喜には、歴代15人の徳川将軍のなかでただ一人という記録があります。
在職中に一度も江戸城へ入城しなかった将軍です。
将軍在職中の慶喜は京都・大坂にいて、一度も畿内を離れませんでした。
多くの幕臣を上洛させ、政権そのものを実質的に畿内へ移していたためです。
慶応の改革 — 小栗忠順と組んだ1年
短い在職期間に、慶喜は幕府の作り直しに手をつけています。これを慶応の改革といいます。
- フランス公使ロッシュを通じて240万ドルの援助を受ける
- 横須賀製鉄所と造修船所を設立
- ジュール・ブリュネら軍事顧問団を招いて軍制を改革
- 老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置
- 実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会へ派遣し、幕臣子弟の欧州留学も奨励
この改革を現場で回したのが、勘定奉行の小栗忠順でした。
ここが少しややこしいところです。
慶喜と小栗は、それまで長く政治的に対立していた間柄でした。
それが将軍就任を機に、改革派の幕閣として組むことになります。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
長らく反りの合わなかった間柄でございます。
徳川慶喜
それが将軍になってからの一年は、同じ側で幕府を作り直しておった。製鉄所も軍制も、そなたが現場を回した。決裂したのは慶応四年の正月、抗戦か恭順かの一点でだ。
小栗忠順を罷免するまで
このサイトが慶喜を扱う理由は、ここにあります。
慶応4年1月12日、江戸城の評定
鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、慶応4年1月6日に大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ退きました。
江戸に着いたのが1月12日です。
その1月12日から、江戸城で評定が開かれます。
小栗忠順は、榎本武揚・大鳥圭介・水野忠徳らとともに徹底抗戦を主張しました。
このとき小栗が出した策は、具体的にはこういうものです。
薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させ、孤立して補給の途絶えた薩長軍を殲滅する
実際、この時点の旧幕府側には、鳥羽・伏見に参加していない予備兵力が多数残っていました。
のちにこの作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れた、という逸話も伝わっています。
慶喜はこの作戦を退け、勝海舟の恭順論を採りました。
1月15日、御役御免
評定の3日後です。
慶応4年(1868年)1月15日、小栗は江戸城で勝手掛老中・松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間で老中・酒井忠惇と若年寄・稲葉重正から沙汰を申し渡されます。
内容は、勘定奉行と陸軍奉行並を御役御免、勤仕並寄合とするというものでした。
小栗はその年の1月28日、上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書を提出します。
なぜ退けられたのか
慶喜が小栗の策を却下した理由について、公式に残された説明はありません。
研究上は、当時の慶喜が武備恭順の姿勢だったからだと推測されています。
抗戦の意思を完全に捨てたわけではないものの、薩長が官軍となったことに動揺する味方を落ち着かせるには、朝廷に恭順の意を見せる必要がありました。
明確に敵対を示す小栗の作戦は、その方針と両立しなかった、という見立てです。
実際、慶喜は同じ時期に横浜の警備を強化し、箱根関と碓氷関へ目付を派遣してもいます。
慶喜が抗戦の意思を捨てて絶対恭順に転じるのは、2月以降とされています。
小栗忠順
なぜ、あの策をお退けになったのですか。
徳川慶喜
公に残した説明はない。ただ、あのころの余は武備恭順であった。薩長が官軍となって味方は動揺しておる。朝廷へ恭順を示さねばならぬ場で、はっきり敵対を示す策は採れなかった——そう見られておる。
なお、幕臣のほとんどは主戦論でした。
ただし「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など案が乱立し、ひとつにまとまる状態ではなかったといわれます。
→ 江戸無血開城とは|小栗忠順が唱えた抗戦策と退けられた理由
罷免されたあとの小栗
権田村へ移った小栗は、慶応4年閏4月に新政府軍に捕らえられ、翌日斬首されます。
その間、小栗は彰義隊の隊長に推されたことがありました。
断ったときの言葉が残っています。
徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない
一方の慶喜は、寛永寺・水戸・駿府と謹慎の場を移しながら生き延び、明治・大正を生きました。
同じ日に同じ城にいた二人の、その後は正反対です。
大政奉還と、将軍としての最後
慶応3年10月14日、慶喜は政権を朝廷へ返上しました。大政奉還です。
同年12月9日の王政復古の大号令で征夷大将軍職を辞し、ここで江戸幕府は終わります。
その直後の慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いが起こりました。
敗れた慶喜は江戸へ戻り、1月7日には追討令が下って官位を剥奪されます。
- 2月12日 — 上野・寛永寺大慈院で謹慎
- 4月11日 — 江戸開城。同日、官職を解かれる
- 4月15日 — 水戸・弘道館至善堂へ
- 7月23日 — 駿河・宝台院へ
謹慎が解けたのは明治2年9月28日。約1年8か月後でした。
「徳川慶喜はすごい」と言われる理由
同時代の人が慶喜をどう見ていたかは、記録が残っています。
評価は一致していません。
| 誰が | どう言ったか |
|---|---|
| 松平春嶽 | 「衆人に勝れたる人才なり」(『逸事史補』) |
| 木戸孝允 | 「一橋の胆略、決して侮るべからず……実に家康の再生を見るが如し」(『回天実記』) |
| 西郷隆盛 | 「確かに人材ではあるが決断力を欠いていられるようである」(『青淵回顧録』) |
| 伊藤博文 | 「実に偉い人だ」(『伊藤博文公』) |
| 渋沢栄一 | 「何の言い訳もされなかった……実にその人格の高いところ」(『雨夜譚会談話筆記』) |
倒幕側の中心だった木戸孝允が「家康の再生を見るが如し」と警戒し、同じく倒幕側の西郷隆盛が「決断力を欠く」と評した。
評価が割れていること自体が、この人物の難しさを示しています。
伊藤博文の「実に偉い人だ」は、大政奉還の理由を本人に直接尋ねたあとの言葉です。
自分を弁護する理屈をいっさい並べず素直に答えたことに感服した、と伝わります。
徳川慶喜はイケメンだったのか
「徳川慶喜 イケメン」で調べる人がいます。写真が多く残っている将軍だからでしょう。
同時代の外国人による記録があります。
イギリス公使館の通訳官アーネスト・サトウは、慶喜をこう書き残しました。
将軍は、私がこれまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりした鼻つき——の立派な紳士であった
(坂田精一訳『一外国人の見た明治維新 上』岩波書店、1961年)
顔立ちを褒めた同時代の証言としては、これがもっともよく引かれるものです。
明治のあとの慶喜|写真・自転車・囲碁
慶喜は大正2年まで生きました。満76歳です。
幕府が倒れてから、さらに45年間を生きたことになります。
静岡・東京での暮らしぶりは、趣味の記録がよく残っています。
- 写真 — 写真家の徳田孝吉に学び、日常風景を数多く撮った。曽孫がカメラマンで、慶喜家に残っていた写真類を整理・出版している
- 油絵 — 慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている。寛永寺・茨城県立歴史館・久能山東照宮・静岡県立美術館などが所蔵
- 囲碁 — プロ棋士から「現代ならアマチュア4〜5段」と評されている。大隈重信とも対局した
- 自転車 — 静岡で家臣を連れてサイクリング(家臣は走った)。息子たちにも自転車を買い与えている
若い頃は薩摩産の豚肉が好物で「豚一様」(豚肉がお好きな一橋様)と揶揄されました。
晩年はパンと牛乳を好んだといいます。
現在の日本橋の橋柱銘板の文字も、慶喜の書です。
明治31年3月2日、慶喜は明治天皇に謁見しました。
大政奉還から30年5か月ぶりの対面です。
徳川慶喜の墓地はどこにある
慶喜の墓所は、東京都台東区の谷中霊園です。
正確には谷中霊園に囲まれた徳川家の墓所で、寛永寺が管理しています(現地の説明板より)。
なぜ寛永寺でも増上寺でもないのか
徳川将軍家の菩提寺は寛永寺と増上寺です。
慶喜だけが、そのどちらにも入っていません。
理由は本人の遺言にあります。
朝敵とされた自分を赦免し、華族の最高位である公爵を親授してくれた明治天皇に感謝を示すため、葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言したのです。
京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためだと、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』は伝えています。
そのため慶喜の墓は、皇族のそれと同じような円墳として建てられました。
神式なので戒名もありません。
訪ねる前に知っておきたいこと
墓所は普段は施錠されていて、中に入ることはできません。
慶喜と正室・美賀子、奥に側室が葬られています。
「墓じまい」が報じられている
この墓所は、いま大きな節目にあります。
2025年12月3日放送のFNN「イット!」によると、徳川慶喜家の5代目当主が墓じまいを決断しました。
- 墓所の広さは300坪
- 名前が刻まれた石は削れ、塀の一部は崩れており、修理には3000万円ほどかかる見込み
- 慶喜直筆の書や油絵など、歴史的な史料約6000点を引き継いでいる
当主は「家族から公の方に移行する」形の墓じまいだと語っており、史料は然るべき場所へ寄贈し、墓地は現状維持してもらえるよう働きかけていくとしています。
その後、墓の祭祀を上野東照宮が引き継ぐ方向で調整していることが、2025年12月30日の朝日新聞などで報じられました。
訪問を考えている場合は、最新の状況を確認してから行くほうが確実です。
『逆賊の幕臣』の徳川慶喜役は誰?
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、徳川慶喜は物語の要になる人物です。
小栗を登用した側であり、罷免した側でもあるからです。
ただし慶喜役はまだ発表されていません。
これまでに発表された配役は32人で、そのなかに慶喜は含まれていません。
将軍としては徳川家慶・家定・家茂の3人が先に発表されており、慶喜だけが空いている状態です。
主人公の生涯を追う構成上、慶喜が登場しないことは考えにくく、今後の発表で埋まる枠と見るのが自然でしょう。
ただし、これはあくまで発表状況からの推測です。NHKは慶喜役について何も公表していません。
大河ドラマ『徳川慶喜』(1998年)
慶喜自身も、かつて大河ドラマの主人公になっています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 徳川慶喜 |
| 放送 | 1998年1月4日〜12月13日(全49回) |
| 主演 | 本木雅弘 |
| 原作 | 司馬遼太郎『最後の将軍 徳川慶喜』 |
| 脚本 | 田向正健 |
| 語り | 大原麗子 |
| 音楽 | 湯浅譲二 |
原作の題名がそのまま「最後の将軍」です。
慶喜という人物が、この呼び名とどれだけ強く結びついているかがわかります。
『徳川慶喜公伝』とは
慶喜の生涯を知るうえで基礎になる本が、渋沢栄一が編んだ『徳川慶喜公伝』です。
渋沢栄一はもともと一橋家の家臣で、主君だった慶喜が将軍になったことで幕臣になった人物です。
その渋沢が、晩年の慶喜本人に確認を取りながらまとめました。
1918年版は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、本文中の逸話の多くはこの本が出典になっています。
よくある質問
徳川慶喜は何をした人ですか
江戸幕府の15代将軍で、慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、政権を朝廷へ返した人物です。
将軍在職は約1年で、その間にフランスの支援を受けた慶応の改革(横須賀製鉄所の設立、軍制改革など)を進めました。
徳川慶喜はなぜ最後の将軍と呼ばれるのですか
徳川将軍15人の最後の1人であり、その代で江戸幕府が終わったからです。
慶応3年12月9日の王政復古の大号令により、征夷大将軍の職そのものが無くなりました。
徳川慶喜はどうやって小栗忠順を罷免したのですか
慶応4年1月15日、江戸城で老中・酒井忠惇と若年寄・稲葉重正から、勘定奉行と陸軍奉行並の御役御免を申し渡す形でした。
その3日前の評定で、小栗の徹底抗戦策を慶喜が退け、勝海舟の恭順論を採ったことが背景にあります。
徳川慶喜の墓地はどこですか
東京都台東区の谷中霊園にある徳川家の墓所です。寛永寺が管理しています。
神式の円墳で、普段は施錠されていて中には入れません。2025年以降、5代目当主による墓じまいと祭祀継承の調整が報じられています。
徳川慶喜は何歳まで生きましたか
大正2年(1913年)11月22日に、満76歳で亡くなりました。
幕府が倒れてから45年後のことです。
徳川慶喜と小栗忠順は仲が悪かったのですか
長く政治的に対立していましたが、慶喜の将軍就任後は改革派の幕閣として組み、慶応の改革を一緒に進めました。
決裂したのは慶応4年1月、抗戦か恭順かで方針が分かれたときです。
小栗忠順の側から見た同じ出来事は、本人のページにまとめてあります。
墓じまいの記述はFNNプライムオンライン(2025年12月3日)をもとにまとめました(2026年8月26日確認)。