三野村利左衛門(みのむら りざえもん、1821年 - 1877年)は、幕末から明治初期の商人です。
三井組の大番頭として三井を明治へ渡らせた人物で、三井財閥の中興の祖とされます。
このサイトで扱うのは、三野村が小栗忠順の家に奉公していたからです。
小栗が斬られたあと、残された家族を引き取って死ぬまで面倒を見続けたのも三野村でした。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、荒川良々さんが演じます。
三野村利左衛門とは|3行でまとめると
- 小栗忠順の父・小栗忠高の中間(下働き)から身を起こした。元の名は利八
- 幕府から三井への御用金50万両を、18万両の3年分納まで減額させた。この交渉が三井入りのきっかけ
- 日本初の民間銀行・三井銀行を設立した。同時に小栗の遺族を終生保護した
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 文政4年(1821年) | 生まれる。出自を確かめられる正確な史料はない |
| 天保10年(1839年) | 江戸へ出る。深川の干鰯問屋の奉公を経て小栗忠高の中間となる |
| 弘化2年(1845年) | 紀ノ国屋の美野川利八の婿養子となり、利八の名を継ぐ |
| 安政2年(1855年) | 両替株を買って両替商になる |
| 万延元年(1860年) | 小判の吹替情報を得て天保小判を買い占め、巨利を得る |
| 慶応2年(1866年) | 三井家に雇われ「通勤支配」に。三野村利左衛門と改名 |
| 慶応4年(1868年) | 罷免された小栗に米国亡命を勧めたとされる |
| 明治6年(1873年) | 小野組とともに第一国立銀行を設立 |
| 明治9年(1876年) | 日本初の民間銀行・三井銀行の設立を実現 |
| 明治10年(1877年) | 胃癌のため死去。57歳没 |
| 大正4年(1915年) | 従五位を追贈される |
出自ははっきりしていない
三野村の出自には、確かな史料がありません。
本人の口述によれば、文政4年(1821年)に庄内藩士・関口彦右衛門為芳の三男として生まれたとされます。
文政10年(1827年)に父が浪人となり、苦難に満ちた少年時代を過ごしました。
天保10年(1839年)に江戸へ出て、深川の干鰯問屋で奉公したのち、小栗忠高の中間になります。
忠高は小栗忠順の父です。
弘化2年(1845年)、菜種油や砂糖を扱っていた紀ノ国屋の美野川利八の婿養子となり、利八の名を継ぎました。
地道に資金を蓄えて、安政2年(1855年)には両替株を買い、両替商になります。
幼少期に諸国を流浪したため非識字者に近く、無学だったと伝えられます。
それでいて時局の見通しは鋭く、行動力に富み、組織をまとめることができた人物でした。
渋沢栄一は三野村を「無学の偉人」と賞賛しています。
転機は小栗からの情報だった
万延元年(1860年)、三野村は旧知の小栗忠順から小判の吹替(改鋳)の情報を事前に得て、天保小判を買い占め、巨利を得ます。
この情報を三井両替店にも売り込んでいて、三井家からは「紀ノ利」と呼ばれて重宝されました。
小栗との縁が、三野村を三井に近づけたわけです。
なお、この時期に幕府が直面していた金の流出と貨幣改鋳の問題は、小栗が遣米使節としてアメリカで通貨交渉にあたった件と地続きです。
御用金50万両の交渉|三井を救った仕事
三井家は幕府から御用金50万両を命じられていました。
このとき、勘定奉行だった小栗とのツテを見込まれて交渉を任されたのが三野村です。
結果は、返済額を18万両、3年にわたる分納とすることに成功しました。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
五十万両を十八万両、しかも三年の分納にしたそうだな。
三野村利左衛門
払えぬ額を、払える形に組み替えただけでございます。あれで三井は潰れずに済みました。手前が三井へ雇われましたのも、この一件がきっかけでして。
この功績によって、慶応2年(1866年)に三井家へ雇われ、小栗と三井の間のパイプ役として「通勤支配」(取締役)に任命されます。
このとき三野村利左衛門と改名しました。
姓の由来は、
- 三 … 三井の「三」
- 野 … 紀ノ国屋の姓「美野川」の「野」
- 村 … 亡父の養家の姓「木村」の「村」
をとったものといわれています。
名前そのものが、三井と自分の来歴を組み合わせて作られています。
幕府から新政府へ|三井を渡らせた判断
慶応4年(1868年)1月に小栗忠順が失脚すると、三野村は幕府の命運を察して新政府への資金援助を三井組に働きかけ、動乱を乗り切った——とされています。
ただしこの一節には、出典が示されていないという注意書きが付いています。
小栗本人の助言があったとする説もありますが、真偽は不明とされています。
小栗忠順を扱った資料にも、慶応4年以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは小栗の助言によるとする説もある、という書き方があり、確定した事実として扱われてはいません。
小栗忠順
三井が新政府へ金を出したのは、わしが勧めたからだと語られておるらしいな。
三野村利左衛門
そう書かれたものはございますが、確かめられる史料は示されておりません。手前の判断だったのか、旦那さまの助言があったのか。そこは分かっていない、というのが正直なところで。
その後の三野村の足取りは、はっきりしています。
- 明治6年(1873年) 小野組とともに第一国立銀行を設立
- 明治7年(1874年) 小野組が経営破綻して銀行経営から手を引く
- 明治9年(1876年) 日本初の民間銀行・三井銀行の設立を実現
小栗に米国亡命を勧めた
鳥羽・伏見の戦いのあと、江戸城の評定で交戦継続を主張して罷免された小栗に対し、三野村は身の危険が迫っていると察して米国への亡命を勧めたとされます。
小栗の側の記録では、三野村から千両箱を贈られて亡命を勧められたものの、小栗はこれを丁重に断り、こう伝えたと伝わります。
暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む
実際に亡命した人もいました。
元若年寄で、小栗とともに兵庫商社の設立を推進した塚原昌義は、身の危険を感じて米国へ渡っています。
小栗の遺族を終生守った
小栗は慶応4年閏4月に捕縛され、処刑されました。
残された家族の世話をしたのが三野村です。
三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に自分が没するまで、終生その面倒を見続けました。
かつて小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じていたためです。
その後の小栗家は次のように続きます。
- 小栗家は、忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ
- 三野村の没後も、三野村家が母子の面倒を見た
- 明治18年(1885年)に妻の道子が没すると、国子は親族の大隈重信に引き取られた
- 大隈の勧めで、矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した
小栗の血筋が絶えなかったのは、三野村が10年近く支えたからです。
三野村が語った小栗忠順
三野村は、小栗についてこう述べています。
もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ
日本初の民間銀行を作った当人が、自分の仕事を「児戯に過ぎない」と言っています。
小栗を「先主」と呼び続けたことに、二人の関係が表れています。
最期とその後
明治10年(1877年)2月21日、胃癌のため死去。57歳没でした。
墓所は杉並区の真盛寺です。
三野村の没後は、婿養子の三野村利助(1843年 - 1901年)が三井銀行の実質的経営者となって引き継ぎました。
大正4年(1915年)には従五位を追贈されています。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』での三野村利左衛門
- 配役: 荒川良々さん
- 発表: 2026年4月24日、出演者発表 第4弾「若き小栗が青春をともにした友人たち」
同じ回では、栗本鋤雲(青木崇高さん)、朝比奈昌広(芝大輔さん)、駒井朝温(高橋光臣さん)、滝川具挙(宮野真守さん)が発表されました。
三野村がこの枠で発表されたことからも、単なる商人としてではなく、小栗の身近な人物として描かれることがうかがえます。
なお三野村は、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』にも登場していて、そのときはイッセー尾形さんが演じました。
よくある質問
三野村利左衛門は何をした人ですか
三井組の大番頭として、幕末の三井を救い、日本初の民間銀行である三井銀行を作った人物です。
幕府から三井への御用金50万両を18万両の3年分納まで減額させた交渉が代表的な仕事にあたります。
小栗忠順とはどういう関係ですか
もともと小栗家の奉公人(中間)でした。
奉公していたのは小栗忠順の父・忠高の代です。のちに小栗から得た情報で財を成し、小栗が処刑されたあとは残された家族を引き取って死ぬまで面倒を見ました。
「無学の偉人」と言ったのは誰ですか
渋沢栄一です。三野村は幼少期の流浪で非識字者に近かったと伝えられますが、時局の見通しと組織をまとめる力に優れていました。
三野村利左衛門の墓はどこですか
杉並区の真盛寺です。
もっと詳しく知るには
三井の側から書かれた本と、小栗の側から書かれた本の両方に登場します。
この記事の出典
配役はNHK ドラマ情報ブログ(出演者発表 第4弾)によります(2026年8月25日確認)。