小野友五郎(おの ともごろう)は、咸臨丸の航海長として太平洋を渡った和算家です。
咸臨丸といえば艦長の勝海舟が有名ですが、船の位置を測って舵の向きを決めていたのは小野でした。
帰国後に将軍への謁見を許されたのは、勝ではなく小野のほうです。
数学から始めて、軍艦を造り、幕府の財政を扱い、明治には鉄道の測量と塩づくりに移った。
一つの肩書きでは説明しきれない人です。
小野友五郎とは|3行でまとめると
- 常陸・笠間藩の和算家。測量とオランダ語の腕を買われて幕府に召し上げられた
- 咸臨丸の測量方兼運用方(航海長)として渡米し、帰国後に幕府初の国産蒸気軍艦を造った
- 幕末は勘定奉行並まで昇り、主戦派とみなされて明治初年に禁固された
経歴の流れ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 文化14年(1817年) | 常陸国笠間藩士・小守宗次の三男として生まれる。のち同藩の小野柳五郎の養子となる |
| 嘉永5年(1852年) | 師の甲斐駒蔵と『量地図説』を著す。同年、幕府天文方に出仕 |
| 安政2年(1855年) | 老中・阿部正弘の直命で長崎の海軍伝習所に入学。測量術を16か月学ぶ |
| 万延元年(1860年) | 咸臨丸の測量方兼運用方(航海長)として渡米 |
| 万延2年(1861年) | 小型蒸気軍艦の建造が許可され主任に。7月に軍艦頭取となり正式に幕臣 |
| 文久2年(1862年) | 幕府初の国産蒸気軍艦千代田形の建造を指揮 |
| 元治元年(1864年) | 勘定吟味役に昇進。11月、横須賀製鉄所の候補地の実地調査に赴く |
| 慶応3年(1867年) | 再渡米し、甲鉄艦ストーンウォール号を購入。10月に勘定奉行並 |
| 慶応4年(1868年) | 鳥羽・伏見の戦いで兵站を担当。2月に逼塞、のち永預(禁固)の刑 |
| 明治3年(1870年) | 民部省へ出仕。鉄道建設のための測量業務に従事 |
| 明治10年(1877年) | 退官。千葉県で製塩事業を始める |
| 明治31年(1898年) | 兵庫県で天日製塩の実地講習中に倒れ、帰京後に死去 |
名前が2つある理由
小野友五郎の諱(いみな)は広胖(ひろとき)です。
「こうはん」と音読みされることもあります。
そして資料では、和算家としては「広胖」、洋算家としては「友五郎」と呼び分けられることが多いとされています。
和算(日本の伝統的な数学)と洋算(西洋数学)の両方を修めた人だったからです。
なお慶応3年に勘定奉行並へ昇ったとき、官位を内膳正に補任されると同時に、名を正式に広胖と改めています。
咸臨丸を動かしていたのは誰か
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のために遣米使節が派遣されます。
その護衛と航海訓練を兼ねて、咸臨丸も送られました。
咸臨丸の乗員でよく知られているのは、艦長の勝麟太郎(勝海舟)です。
しかし小野の役職は測量方兼運用方、つまり航海長でした。
船の位置を測り、進む方向を決める役です。
同乗したアメリカ海軍の測量士官ジョン・ブルック大尉は、小野の測量術の練達ぶりに感心し、以後親交を結ぶようになったと記録されています。
将軍に会えたのは勝ではなく小野
帰国後、軍艦奉行の木村芥舟が航海中における小野の功績を報告しました。
その結果、小野は14代将軍・徳川家茂に謁見し、褒賞を賜っています。
一方、艦長であった勝は謁見を許されていません。
これに伴い小野は物頭格五人扶持の待遇を受けました。
咸臨丸の航海が「勝海舟の功績」として語られがちなのに対し、当時の幕府が誰の働きを評価したのかがはっきり分かる場面です。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
勝海舟
帰ってから将軍にお目通りしたのはおまえさんで、艦長のおれは呼ばれなかったな。
小野友五郎
軍艦奉行の木村さまが航海中の働きを報告してくださった結果です。船の位置を測って進む向きを決めるのが私の役でしたから、そこを見ていただいたのでしょう。
日本初の国産蒸気軍艦を造る
渡米で海軍の実力差を痛感した小野は、軍艦奉行に対して国産蒸気船の建造を具申します。
万延2年(1861年)正月に小型蒸気軍艦の建造が許可され、小野が主任に任命されました。
そして文久2年(1862年)、幕府で初めての国産蒸気軍艦千代田形の建造を指揮します。
千代田形は量産が計画されていましたが、結局一号船だけで終わりました。
そのため、船名がそのまま「千代田形」と呼ばれています。
小笠原諸島を測って日本領にした
ジョン万次郎が小笠原諸島の領有と捕鯨基地化を提案していた一方、アメリカとイギリスも同島の領有権を主張し始めていました。
そこで精密な調査が必要になり、外国奉行・水野忠徳を長とする調査団が派遣されます。
このとき小野は咸臨丸の艦長に任ぜられ、同諸島の測量を行いました。
この測量が、小笠原諸島の日本領有の大きな手がかりになったとされています。
数学の腕が、そのまま領土の話につながった例です。
幕府の金を扱う側へ
元治元年(1864年)6月、小野は勘定吟味役に昇進します。
同年7月2日には「金銀吹替并吹立御用」を兼務し、外国貨幣と日本貨幣の内外価格差による金銀貨の流出防止に努めました。
同年11月には横須賀製鉄所の設立に関与し、横須賀周辺の造船所候補地の実地調査にも赴いています。
また、第一次・第二次の長州征討では、幕府陸軍の動員・補給計画に携わりました。
測量家から、兵站と財政の実務家に移っていきます。
2度目の渡米で買ってきたもの
長州との戦争を経て、幕府はさらなる軍艦補充を図ります。
小野は軍艦調達の命を受け、慶応3年(1867年)1月に再び渡米しました。
このときの使節団は小野が正使で、副使に松本寿太夫、随行に福沢諭吉、津田仙、尺振八らが加わっています。
国務長官ウィリアム・スワード、大統領アンドリュー・ジョンソン、ユリシーズ・グラントと会見し、海軍省との交渉の末、甲鉄艦ストーンウォール号の購入に成功しました。
同艦は後に「甲鉄」と呼ばれ、宮古湾海戦の中心となり、明治4年に「東艦」と改名されます。
買ったのは軍艦だけではありません。
- 11インチダールグレン砲
- 海軍用の蒸気消火ポンプ
- スペンサー銃1,000挺
- ヘンリー銃300挺と、それに付随する金属薬莢の製造装置
- 2万ドル相当の最新科学技術書
薬莢の製造装置と技術書まで買っているところが、この使節団の性格をよく表しています。
銃そのものより、銃を作り続けられる状態のほうを持ち帰ろうとしています。
勝海舟
二度目の渡米では、ずいぶん買い込んできたそうじゃないか。
小野友五郎
甲鉄艦のほかに、銃とあわせて金属薬莢を作る装置を積みました。技術書も二万ドル分です。銃そのものより、銃を作り続けられる状態のほうを持ち帰りたかったのです。
ワシントンでは海軍工廠・陸軍兵器廠で製造技術を、特許庁で採鉱・冶金・造幣技術を、政府印刷局で紙幣の原版彫刻と印刷の現場を調査しました。
アメリカ側の勧めもあり、盲唖学校やジョージタウン大学などの教育施設の視察にも多くの時間を割いています。
小栗忠順との関係
慶応3年6月に帰国した小野は、勘定頭取を経て10月に勘定奉行並へ昇進します。
このとき、小野の上司にあたる勘定奉行が小栗忠順でした。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで、小野は後方の兵站業務を担当します。
徳川軍は敗れ、慶喜は開陽丸で江戸へ引き上げてしまいました。
小野は海軍伝習所時代の後輩である榎本武揚らとともに殿軍として残り、大坂城の御金蔵にあった古金18万両を江戸へ持ち帰っています。
江戸に戻ったあと、勘定奉行の小栗忠順は慶喜から叱責を受けて罷免されました。
恭順路線が採られ、主戦派はことごとく退けられます。
小野も2月に逼塞となりました。
4月に新政府軍が江戸城へ入ると、鳥羽・伏見の経緯から小野は主戦派の首魁と目され、「重罪・厳科の処、格別の寛典を以て死一等を宥められ」として永預(禁固)の刑を受けます。
入獄中に、小野たちが購入したストーンウォール号が日本へ到着しました。
所有権は明治新政府へ移りました。
6月、徳川家の駿府藩移封が決まった際に出獄を赦されています。
小栗は慶応4年閏4月に斬られました。
同じ主戦派で、同じ勘定所の上下だった二人の結末は、ここで分かれています。
明治の小野友五郎は何をしていたか
出獄後、小野は海軍からの出仕要請を固辞しました。
明治3年(1870年)4月に民部省への出仕に応じ、鉄道建設のための測量業務に佐藤政養とともに従事します。
工部省の発足後は同省へ移り、引き続き鉄道業務に携わりました。
海軍畑を離れて、民生の側に回ったことになります。
珠算を復活させた
数学教育にも熱心でした。
明治6年(1873年)、小野は文部卿・大木喬任に対し、前年の学制発布で廃止された珠算の復活を建言し、実現させます。
洋算を教えられる教師が少なく、教育現場が混乱していたためです。
洋式数学の教師が育つまでの当分の間、珠算を教えることになりました。
西洋式数学の普及にも同時に努めています。
明治9年(1876年)には、国土測量と観測事業を担う内務省地理寮量地課を縮小廃止しようとする内務卿・大久保利通に対し、天文観象台を充実するよう建言しました。
明治23年(1890年)には旧幕臣の栗本鋤雲らとともに、文部大臣・芳川顕正へ漢字制限の提案を行っています。
明治26年(1893年)には尋常小学校用の教科書『新撰洋算初歩』を編纂しました。
最後は塩を作っていた
明治10年(1877年)1月に退官し、家督を養子の熊次郎に譲って隠居します。
そして千葉県周淮郡大堀村(現在の君津市)の塩田跡地を借り受け、官許のもとで製塩事業を始めました。
明治12年(1879年)に竣工、翌年から試験操業を開始しています。
明治31年(1898年)8月、兵庫県印南郡大塩村で炎天下の天日製塩の実地講習を行っている最中に病に倒れ、帰京後に亡くなりました。
なお、このときの年齢は資料によって表記が違います。
本文は「82歳の高齢ながら」と書いていますが、生没年(1817年12月1日生 - 1898年10月29日没)から数えると満80歳です。
82歳は数え年での表記とみられますが、断定できる材料はありません。
墓は茨城県笠間市にあります。
大正7年(1918年)、正五位を追贈されました。
『逆賊の幕臣』に小野友五郎は出るのか
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公です。
小野友五郎は小栗の下で勘定奉行並を務めた人物なので、登場を期待する検索が発生しています。
ただし、小野友五郎の配役は発表されていません。
NHKが第8弾まで発表した配役32人に小野友五郎は含まれていません。
発表済みの中で勘定所に関わる人物は、小栗忠順(松坂桃李さん)、朝比奈昌広(芝大輔さん)、駒井朝温(高橋光臣さん)、栗本鋤雲(青木崇高さん)などです。
出るか出ないかは、今後の発表を待つしかありません。
→ 『逆賊の幕臣』キャスト一覧|発表済みの配役をまとめて確認
小野友五郎を題材にした本
小説では次の2作があります。
- 鳴海風『怒濤逆巻くも 幕末の数学者小野友五郎』上・下(新人物往来社、2003年)
- 今野敏『天を測る』(講談社、2020年)
評伝としては、藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート』(中公新書、1985年)があります。
よくある質問
小野友五郎は何をした人ですか
咸臨丸の航海長として太平洋を渡り、幕府初の国産蒸気軍艦「千代田形」を造り、小笠原諸島を測量し、幕末は勘定奉行並まで昇った和算家です。
明治以後は鉄道の測量、数学教育、製塩事業に携わりました。
咸臨丸の艦長は勝海舟ではないのですか
万延元年の渡米時の艦長は勝麟太郎(勝海舟)です。
小野友五郎はその下で測量方兼運用方(航海長)を務めました。
ただし帰国後に将軍へ謁見して褒賞を受けたのは小野で、勝は謁見を許されていません。
小野友五郎と小栗忠順はどういう関係ですか
慶応3年10月に小野が勘定奉行並となったとき、上司にあたる勘定奉行が小栗忠順でした。
どちらも新政府軍への主戦を唱えた側で、小栗は罷免のうえ斬首され、小野は逼塞と禁固を経て赦されています。
なぜ数学者が軍艦を造れたのですか
小野は測量術と航海術、オランダ語に精通していました。
オランダの航海術書を翻訳して『渡海新編』4巻として幕府に提出し、長崎の海軍伝習所で測量術を16か月学び、築地の軍艦操練所で教授方を務めています。
船の設計と運用に必要な計算ができる人が、当時ほとんどいなかったということです。
小野友五郎のお墓はどこですか
茨城県笠間市にあります。
法名は観月院殿塩翁広胖居士です。
同じ時代を生きた人たちについては、人物のまとめページがあります。
配役についてはNHKの発表分を数えたもので、未発表の配役は含みません(2026年8月25日確認)。