井伊直弼(いい なおすけ)は、幕末の江戸幕府で大老を務めた近江彦根藩の第16代藩主です。

勅許を待たずに日米修好通商条約へ調印し、反対勢力を処罰し(安政の大獄)、その反動で桜田門外の変に倒れました。教科書では、この2つの事件でだけ名前が出てきます。

ただ、彦根で15年も部屋住みだった庶子が、なぜ幕府の頂点に座ることになったのか。
そして、正使・副使より一回り若い小栗忠順が、なぜ遣米使節の目付に選ばれたのか。
このページでは、そのあたりまで含めて整理します。

井伊直弼とはどんな人物か

項目 内容
生没 文化12年10月29日(1815年11月29日)〜 安政7年3月3日(1860年3月24日)・享年46
生まれ 彦根城二の丸の槻御殿(現在の滋賀県彦根市)
父母 父は第14代彦根藩主・井伊直中、母は側室の君田富(お富の方)
立場 近江彦根藩 第16代藩主 → 江戸幕府 大老
官位 掃部頭(かもんのかみ)。史料では「掃部頭」と呼ばれることが多い
渾名 井伊の赤鬼
墓所 豪徳寺(東京都世田谷区)「彦根藩主井伊家墓所」

直中の十四男で、しかも父が隠居したあとに生まれた庶子でした。
本来なら藩主になる順番ではありません。

埋木舎の15年

父の死後、直弼は彦根城三の丸の屋敷へ移ります。
自分を「花の咲くことのない埋もれ木」にたとえて、その屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名付けました。
17歳から32歳までの15年間を、300俵の部屋住みとして過ごしています。

この時期の直弼は、部屋にこもって学んでいました。

  • 国学 … 近江市場村の医師・三浦北庵の紹介で、長野義言(主膳)と師弟関係を結ぶ
  • 茶の湯 … 石州流のなかに一派を確立し、「宗観」の名を持つ。著書『茶湯一会集』の巻頭に「一期一会」がある
  • 居合 … 新心流から新心新流を開く
  • 狂言 … 廃曲になっていた『狸の腹鼓』の復曲を試み、『鬼ヶ宿』『濯ぎ川』を新作した
  • ほかに和歌、鼓、禅、兵学、槍術

「一期一会」という四字熟語を、直弼より前に使った例は確認されていません。

なお「300俵の貧しい暮らし」というイメージは、近年の研究で修正されています。
屋敷の維持管理費、薪炭、付け人の俸禄などは藩の公金から別に出ており、経済的にはある程度の余裕がありました。

転機は弘化3年(1846年)です。
後継者だった兄・直元が死去したため、直弼が江戸へ呼ばれ、彦根藩の後継者に決まりました。
嘉永3年(1850年)11月21日、家督を継いで藩主になります。

黒船のあと、意見書が2週間で反転している

嘉永6年(1853年)、直弼は帰国したばかりの彦根で黒船来航の一報を受け取りました。

老中首座・阿部正弘の諮問に対し、直弼は2通の意見書を出しています。

提出日 主張
8月10日 「天主の邪教を防ぐという国益がある」として鎖国の継続
8月29日 現状での鎖国維持は無謀。積極的な交易と開国

19日で逆になっています。
ただし2通目の後半には「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」とも書かれていました。
このため、直弼は元々は鎖国論者で、開国論は政治的な方便だったとする説もあります(後述)。

黒船そのものについては、黒船来航と開国|日本が変わった1853年からの10年にまとめました。

「大老は掃部頭しかいない」

安政5年(1858年)4月、条約の勅許を得られずに京都から戻った老中・堀田正睦は、将軍・徳川家定に「松平慶永を大老に就けたい」と述べました。

これに対して家定が言ったのが、次の言葉です。

家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない

将軍周辺が急に動き、4月23日、直弼は大老に就任します。
就任初日から御用部屋で執務を始め、幕府右筆役が「畳の温まる間もなく、海防策についての意見を述べられたので非常に驚いた」と証言を残しました。

日米修好通商条約|調印を命じたのではない

ここは誤解されやすいところです。
直弼自身は、勅許なしの条約調印には反対でした。

安政5年6月、ハリスは「清でのアロー戦争が休戦になった。戦勝の勢いで英仏の連合艦隊が来る前に、速やかに条約を結ぶべきだ」と勧告してきます。
6月18日の幕閣会議で、勅許を得てからの調印を主張したのは、直弼と若年寄・本多忠徳のわずか2人でした。

直弼は、交渉役の井上清直と岩瀬忠震を送り出すとき、「やむを得ない場合は調印していいか」と問われてこう答えます。

その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように(已むを得ざれば、是非に及ばず)

井上と岩瀬はこれを承諾の言質と受け取り、6月19日、ポーハタン号のハリスのもとへ行ってその日のうちに日米修好通商条約へ調印しました。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

阿部正弘

阿部正弘

勅許を得ないまま条約に調印させた大老、と語られていますね。命じたのはあなただと。

井伊直弼

井伊直弼

六月十八日の会議で勅許を待てと言ったのは、わしと本多忠徳の二人だけだ。やむを得ぬときは仕方あるまいと答えたのを、井上と岩瀬は承諾と受け取り、その日のうちに署名してきた。

調印後、直弼は側近に大老辞職の意思を漏らしています。
「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と諫められて思い直しました。

同じ月の25日、幕府は将軍の跡継ぎを紀州の徳川慶福(のちの徳川家茂)と公表します。
一橋慶喜を推していた徳川斉昭・松平慶永らは、7月に隠居・謹慎・登城停止の処分を受けました。

安政の大獄

安政5年8月8日、孝明天皇は幕府を批判する戊午の密勅を、幕府だけでなく水戸藩へも下しました。
朝廷が幕府を飛び越えて一藩に指示を出すのは、幕藩体制では前代未聞のことでした。

幕府はここから徹底した摘発に入ります。

  • 密勅降下の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代・酒井忠義に捕縛させた
  • 押収した密書から、薩摩藩兵の武力による倒幕計画などが露見
  • 橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多数の志士、宮家や堂上家の家臣が捕縛された
  • 志士への処分は安政6年の8月27日・10月7日・10月27日の3度に分けて行われ、切腹・死罪・遠島・重追放などが下った

処分の重さについては、松平慶永の回顧録『逸事史補』に、こういう記述が残っています。

橋本左内らについて、評定所から「流罪や追放、永蟄居が妥当」との意見書が大老掃部頭に提出されたが、数日後に「死刑」の附札が付いた書類が戻ってきた

処罰は幕臣にもおよびました。
条約を交渉した岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠徳、永井尚志といった開明派の官僚が、一橋慶喜の擁立に動いたことを咎められて免職などの処分を受けています。
さらに、厳罰方針に反対した老中の太田資始・久世広周、寺社奉行・板倉勝静も免職。
京都から戻った老中・間部詮勝すら、政治方針の対立から罷免されました。

幕府の外にも内にも、敵をつくった——それが安政の大獄でした。

桜田門外の変

安政7年正月、直弼は水戸藩に対し「1月25日までに密勅を返納しなければ、違勅の罪を問い水戸藩を改易する」とまで述べたと伝わります。
これが水戸藩士を憤激させ、脱藩した高橋多一郎・関鉄之介らによって襲撃の謀議が繰り返されました。

幕府も不穏な動きは察知していました。
事件の4日前、吉井藩主・松平信和が外桜田の藩邸を訪ね、大老を辞職して彦根へ帰るか、せめて従士を増やすよう勧めています。
直弼はどちらも受け入れませんでした。

人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかない

安政7年3月3日(1860年3月24日)午前9時ごろ、雪のなかを外桜田の藩邸から江戸城へ向かう直弼の行列が、桜田門外で襲われます。

項目 内容
襲撃側 水戸脱藩浪士17名+薩摩藩士・有村次左衛門の計18名
護衛 徒士・足軽・草履取りなど60余名
経過 最初に短銃で撃たれた直弼は駕籠から動けなくなった
護衛の不運 降り出した雪を避けるため刀の鞘に柄袋を付けており、抜刀が間に合わなかった

直弼は駕籠から引きずり出され、首を刎ねられました。

首級は有村次左衛門が持ち去りましたが、重傷の有村が若年寄・遠藤胤統邸の門前で自刃したため、遠藤家が引き取ります。
井伊家は「供侍の首」と称してこれを取り戻し、胴と縫い合わせました。

事件後、井伊家は直弼の死を隠します。
その日のうちに直弼名義で「負傷したので、一先ず帰邸した」という届書が幕府に出され、将軍・家茂からは見舞いとして高麗人参・氷砂糖・鮮魚が届きました。
死が公表されたのは、閏3月晦日です。
豪徳寺の墓碑に刻まれた没日が「万延元年閏3月28日」になっているのは、この工作のためです。

文久2年(1862年)11月20日、反直弼派が政権を握ると、彦根藩は10万石を減封され、預かり地5万石も没収されました。

小栗忠順を抜擢したのは井伊直弼だったのか

ここが、このサイトにとっての本題です。

安政6年(1859年)9月、日米修好通商条約の批准書を交換する使節の正使・副使が決まりました。
翌年に渡米する万延元年遣米使節です。

役 人物 禄高
正使 新見正興 2,000石
副使 村垣範正 500石
目付(監察) 小栗忠順 当時2,500石

小栗は、正使・副使より一回り若い人物でした。
この抜擢について、才能を見込んだ井伊直弼によるものだと伝えられています。

ただし、これは「伝えられる」という書かれ方をしている話です。
直弼が誰をどう推したかを直接示す史料が示されているわけではありません。断定はできません。

阿部正弘

阿部正弘

正使や副使より一回りも若い小栗を目付に据えたのは、あなたの目利きだと言われています。

井伊直弼

井伊直弼

そう伝わっているだけで、わしが誰をどう推したかを示す史料が出ているわけではない。確かなのは、あの人事がわしの大老在職中に決まったということだけだ。

確実に言えるのは、次の2点です。

  1. この人事は、直弼が大老の座にあった時期に行われた(直弼の大老就任は安政5年4月、使節の任命は安政6年9月)
  2. 小栗には、目付という表向きの職務とは別に、通貨の交換比率を交渉するという非公式の役目が与えられていた

そして、使節が出港したあとに桜田門外の変が起きます。

日付(旧暦/西暦) 出来事
安政7年1月18日/1860年2月9日 使節一行が品川沖でポーハタン号に乗船
1月22日/2月13日 横浜を出港
2月13日/3月4日 石炭補給のためホノルルへ寄港
2月26日/3月17日 ホノルルを出港
3月3日/3月24日 桜田門外の変。直弼が討たれる
3月8日/3月28日 使節がサンフランシスコに到着

つまり小栗は、自分を送り出した大老が討たれたことを知らないまま、太平洋を渡っていたわけです。
日本の外交を動かしていた人物が消えたあとの幕府で、小栗はこのあと外国奉行・勘定奉行として20年近い仕事をすることになります。

小栗の側から見た航海は咸臨丸と万延元年遣米使節|小栗忠順が見たアメリカに、生涯全体は小栗忠順とは何をした人かにまとめました。

評価が真っ二つに割れている

同時代の人物による直弼評は、驚くほど食い違います。

評した人 評価
水野忠徳(幕臣・一橋派) 「これまで英明との話は聞いたことがない」
岩瀬忠震(幕臣・条約交渉役) 「子供のような人物」(『昨夢紀事』)
徳川慶喜(晩年の回想) 「才略には乏しいが、決断力のある人物」(『昔夢会筆記』)
吉田松陰 藩主就任当時の藩政改革を「名君」と評した

最後の1つは、幕末史のなかでも皮肉な組み合わせです。
松陰は、彦根に帰国した直弼が領民の出迎えを恥じて詠んだ歌を、兄への書簡に書き写し、領民への哀れみを持った領主だと賛辞を贈っていました。
その松陰を、直弼は安政の大獄で死罪にしています。

直弼は本当に開国派だったのか

歴史学者の石井孝は、直弼は一貫した攘夷論者だったとする説を唱えています。根拠は次の3点です。

  • 側近の長野主膳が「外国人を居留地に閉じ込めて監視し、商売を規制する。報復するなら打ち払うべきだ」という趣旨の意見書を出しており、直弼自身も安政5年1月に堀田正睦の外交姿勢を「一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしい」と批判している
  • 通商条約の締結間際に、阿部正弘や堀田正睦が登用した開明派官僚を多く追放している
  • 安政5年11月、間部詮勝を通じて関白・九条尚忠に「自分の本意は従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている

条約に調印した大老が攘夷論者だった、という読み方です。
定説になっているわけではありませんが、直弼の評価が一筋縄ではいかないことを示しています。

井伊直政と井伊直弼|同じ「赤鬼」と呼ばれた先祖と子孫

「井伊」といえば、大河ドラマでは戦国時代の井伊直政のほうが有名かもしれません。

直政は徳川四天王の一人で、彦根藩井伊家の祖にあたる人物です。直弼はその子孫です。

井伊直政 井伊直弼
時代 戦国〜江戸初期 幕末
立場 上野高崎藩の初代藩主 → 近江佐和山へ転封 近江彦根藩 第16代藩主 → 大老
渾名 井伊の赤鬼 井伊の赤鬼
最期 慶長7年(1602年)、彦根城の築城途中に佐和山城で死去・享年42 安政7年(1860年)、桜田門外で暗殺・享年46

「赤鬼」の由来は違います。
直政のほうは、武田の山県昌景の朱色の軍装を継承した井伊の赤備えを率い、鬼の角のような立物の兜で戦場を駆けた姿から呼ばれたもの。
直弼のほうは、安政の大獄を行って以降についた渾名です。

もう一つ、この事業部にとって見逃せない縁があります。
直政は、現在の群馬県高崎市の発展の基礎を築いた人物でもあります。
小栗忠順が生涯の最後を過ごした権田村は、いまの高崎市倉渕町です。

井伊直政を演じた大河ドラマの俳優

井伊直政は大河ドラマの常連です。近年の2作を挙げます。

作品 放送年 井伊直政役
おんな城主 直虎 2017年 佐藤恋和 → 鈴木楽 → 寺田心 → 菅田将暉
どうする家康 2023年 板垣李光人

「どうする家康の井伊直政」で検索して、幕末の直弼にたどり着いた方は、この2人が別人であることだけ押さえておけば十分です。
直政と直弼のあいだには、250年以上の開きがあります。

歴代の大河ドラマは大河ドラマ一覧にまとめています。

『逆賊の幕臣』で井伊直弼を演じるのは岡部たかし

2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、小栗忠順が主人公です。
井伊直弼役は岡部たかし。2026年2月24日に発表された第3弾のキャストに含まれていました。

同じ第3弾では、小栗の父・小栗忠高役に北村有起哉、母・くに役に鈴木京香、妻・みち役に上白石萌音、安積艮斎役に中村雅俊が発表されています。

小栗が主人公である以上、直弼との場面がどう描かれるかは物語の序盤の見どころになります。
発表済みの配役は逆賊の幕臣のキャスト一覧で随時更新しています。

よくある質問

井伊直弼は何をした人ですか

幕末の江戸幕府の大老です。
勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反対する大名・公家・志士を処罰しました(安政の大獄)。
その反動で、水戸脱藩浪士らに桜田門外で暗殺されました。

井伊直弼はなぜ暗殺されたのですか

安政の大獄で処罰された側の反発が直接の原因です。
とくに水戸藩は、朝廷から下された戊午の密勅の返納を強く迫られており、直弼が「期限までに返さなければ改易する」と述べたことが藩士を憤激させたと伝わります。

井伊直弼は開国派ですか攘夷派ですか

一般には開国派とされます。
ただし、黒船来航直後の1通目の意見書では鎖国継続を主張していること、大老時代に関白へ「本意は鎖国に復することだ」と述べていることから、一貫した攘夷論者だったとする説(石井孝)もあります。

「一期一会」は井伊直弼の言葉ですか

四字熟語としての「一期一会」を直弼より前に使った例は確認されていません。
直弼の著書『茶湯一会集』の巻頭にあります。
ただし、この言葉につながる意味内容自体は、利休七哲の山上宗二が著した『山上宗二記』にすでにあります。

井伊直弼と井伊直政はどういう関係ですか

直政が彦根藩井伊家の祖で、直弼はその子孫にあたる第16代藩主です。
生きた時代は250年以上離れています。
どちらも「井伊の赤鬼」と呼ばれましたが、直政は赤備えの軍装から、直弼は安政の大獄からと、由来は別です。

井伊直弼の墓はどこにありますか

東京都世田谷区の豪徳寺、「彦根藩主井伊家墓所」(国指定史跡)にあります。
墓碑の没日は実際の安政7年3月3日ではなく、死を伏せていた間の表向きの日付「万延元年閏3月28日」になっています。


同じ時代を生きた人々は、事典のページからたどれます。
直弼の側から幕末を読み直したい場合は、書籍のページを用意しました。

→ 幕末の人物事典|小栗忠順と同じ時代を生きた人々

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ


『逆賊の幕臣』の配役はNHK公式のドラマ情報で確認しています(2026年8月24日確認)。

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