「小栗上野介といえばネジ」と言われるほど、この人物と1本のネジは強く結びついています。
万延元年(1860年)に遣米使節としてアメリカへ渡ったとき、ワシントンの海軍工廠を見学して持ち帰った——という話です。
実物は群馬県高崎市の東善寺に、いまも保管されています。
ただしこのエピソードには、広く語られている形と、寺が伝えている形が食い違うという問題があります。ここを整理しておかないと、どの本を読んだかで話が変わってしまいます。
東善寺に現存するネジの実物
東善寺が公開しているネジの寸法は、次のとおりです。
| 項目 | 寸法(東善寺の表記のまま) |
|---|---|
| 長さ | 43.76cm |
| ねじ部の長さ | 27.3〜28.4cm |
| ピッチ | 2.47mm |
| 太さ | 6.03mm |
| ヘッド部 | 11.80mm |
| マイナス溝の幅 | 1.08mm(深さ1.0mm) |
| 重さ | 8g |
長さとねじ部だけが「cm」表記になっていますが、太さ6.03mm・重さ8gと釣り合いません。太さ6mmの鉄のネジが43.76cmあれば100g近くになるためです。単位が「mm」の誤記である可能性が高いものの、公式がcmと書いている以上、当サイトで書き換えずそのまま載せます。
見た目は、頭がマイナス溝の、ごくふつうのネジです。
この「ふつうさ」こそが要点で、同じ規格のものをいくらでも作れるという事実そのものが、当時の日本には無いものでした。
「1本を拾ってきた」という話は正しいのか
よく語られるのは、次のような形です。
小栗上野介はワシントン海軍造船所を見学したとき、工場の床に落ちていた1本のネジを拾って持ち帰った。
東善寺はこの言い方を2点で誤りだとしています。
1. 武士は落ちているものを拾わない
寺の説明では、武士は落ちているものを黙って持ち帰るようなことはせず、欲しければ持ち主の了解を得る、というのが基本の作法です。
そもそも落ちているものに手を出さないようしつけられており、その心がけが江戸時代を通じて庶民にも広がった、という立場を取っています。
近年は「盗んできたと聴いた」と書く人まで現れた、とも書かれています。
2. 持ち帰ったのは1本ではない
寺の説明では、小栗上野介はネジを箱でもらってきて、帰国後に土産として配りました。
東善寺に残っているのは、そのうちの1本だという位置づけです。
「1本」が定着した理由
では、なぜ「1本のネジ」という形で広まったのか。
東善寺は、2002年11月20日に放送されたNHK『その時歴史が動いた』を挙げています。
この回は「改革に散った最後の幕臣 小栗上野介 〜一本のねじから日本の近代は始まった〜」という題で、番組内のナレーションが「一本のねじを握りしめて持ち帰った」と表現しました。
放送後は関東のネジ業者から「そのネジを見せてほしい」という電話が入るようになり、ここから知名度が一気に上がったと寺は書いています。
なお「床で拾った」という形については、数年前の歴史雑誌が拾う姿のイラスト入りで載せたのが出どころではないか、と寺は推測しています。
注意したいのは、ねじの伝来をまとめた資料の側にも、小栗が1本のねじを持ち帰ったとする記述が残っていることです。文献に「1本」と書いてあること自体は事実なので、どちらか一方だけを見て断定はできません。当サイトとしては、実物を所蔵している東善寺の説明と、文献に基づく記述の両方があるという書き方にとどめます。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小野友五郎
工場の床に落ちていたねじを拾ってこられた、という話になっております。
小栗忠順
落ちているものを黙って持ち帰りはせぬ。東善寺もそう否定しておるし、寺の言い分では箱でもらって帰り、土産に配ったことになっている。もっとも一本と書いた文献もあるので、割れているとしか言えぬ。
そもそもネジは日本にいつ入ったのか
「小栗上野介が日本にネジを持ち込んだ」と読めてしまう紹介もありますが、これは正しくありません。
ネジ自体は1543年、種子島に漂着したポルトガル人の火縄銃とともに伝来したとされています。
種子島時堯は火縄銃2挺を購入し、うち1挺を刀鍛冶の八板金兵衛に与えて模造を命じました。このとき銃身の後ろをふさぐ尾栓のネジをどう作るかが最大の難所になり、金兵衛が娘をポルトガル人に嫁がせてまで製法を習得したという伝説が残っています。
東善寺自身も、「ネジ自体は種子島に鉄砲がもたらされたときから日本に入っている」「小栗忠順が持ち帰ったネジが格別珍しいものとは言えない」と明記しています。
江戸時代は「ねじの無い文化」だった
一方で、伝来したのに広がりませんでした。
江戸時代の工業製品にネジの使用例はほとんど無く、和時計にも特殊なネジがわずかにあるだけで、大半は楔(くさび)で組まれていました。
理由は単純で、ネジを作るための工作機械や工具が無かったためです。手作りのネジ山には互換性がなく、1本ずつ現物合わせで作るしかありません。
日本にねじ切り用の旋盤が輸入されたのは1857年です。小栗上野介の渡米は、その3年後にあたります。
ネジが象徴していたもの
つまり小栗上野介が驚いたのは、ネジという部品そのものではありません。
同じ規格のものを、いくらでも同じように作れるという仕組みのほうです。
1本ずつ現物合わせで作る国と、規格品を量産できる国とでは、機械も船も、その先の産業も、根本から違ってきます。
小野友五郎
ねじそのものは、種子島の鉄砲とともに三百年前に入っております。
小栗忠順
わしが驚いたのは、ねじではない。同じ形のものをいくらでも同じに作れる、その仕組みのほうだ。一本ずつ現物合わせで削る国では、船は造れぬ。
東善寺は、小栗上野介が配った趣旨を「アメリカではこういうモノをどんどん造っていたよ。日本もこういうモノをどんどん造れる国にしたい」という意味だったとみています。
帰国後の小栗上野介は、攘夷運動の激しいなかで造船所の建設を主張し続けました。
建議から4年後に将軍・徳川家茂と幕閣が建設に踏み切り、慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所が着工します。
横須賀の施設は幕府が倒れたあとも明治政府に引き継がれ、日本の造船業の出発点になりました。
ネジ1本の話が語り継がれてきたのは、そこに至る発想の出発点だったからです。
この話をたどるときの注意点
- 「日本で最初のネジ」ではありません。ネジの伝来は1543年です
- 「1本」か「箱ごと」かは、資料によって割れています。実物を所蔵する東善寺は箱ごとだとしています
- 「床で拾った」という記述は、東善寺が明確に否定しています
- 現存する1本を見られるのは、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺です
小栗上野介の生涯全体と、この渡米が何をもたらしたのかは、こちらにまとめています。
もう少し詳しく追いたい場合は、評伝や研究書が複数出ています。どれから読むとよいかは書籍のページで整理しました。
よくある質問
小栗上野介のネジはどこで見られますか
群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺です。小栗忠順の墓と遺品館があります。
ネジは何本持ち帰ったのですか
東善寺は「箱でもらってきて土産に配った」としており、1本ではないという立場です。一方で文献には「1本のねじを持ち帰った」と書かれているものもあり、資料によって割れています。
工場の床で拾ったというのは本当ですか
東善寺は否定しています。武士は落ちているものを黙って持ち帰らない、というのが理由です。この話の出どころは歴史雑誌の記事ではないかと寺は推測しています。
日本で最初のネジですか
違います。ネジは1543年に種子島へ火縄銃とともに伝来したとされています。ただし江戸時代の工業製品にはほとんど使われず、量産する技術もありませんでした。
なぜネジがそんなに重要なのですか
同じ規格の部品を量産できるかどうかが、機械や船を作れる国かどうかを分けるためです。小栗上野介が造船所の建設を主張し続けた理由も、そこにあります。
ネジの実物と経緯は東善寺の公開資料をもとにまとめました(2026年8月25日確認)。