小栗忠順(小栗上野介)の仕事というと横須賀製鉄所が知られていますが、同じ時期に、江戸と関東でいくつもの事業が並行して動いていました。
日本最初の本格的ホテル、鉄製の大砲を作るための反射炉、その鉄を採るための鉄山。
どれも「幕府が倒れなければ」の話ではなく、実際に着工し、いくつかは完成しています。
ここでは、横須賀以外の事業をまとめて見ていきます。
3行でまとめると
- 築地ホテル館は着工から1年で完成し、102室・水洗トイレつきで開業した。ただし4年足らずで焼失した
- 滝野川反射炉は慶応2年(1866年)に完成し、明治政府に接収されて東京砲兵工廠のもとになった
- 中小坂鉄山の溶鉱炉だけは、大政奉還に間に合わず幕府の手で建てられなかった
築地ホテル館|日本最初の本格的ホテル
なぜ幕府がホテルを作ることになったのか
きっかけは外交でした。
ロンドン覚書によって江戸の開市が慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)に予定され、江戸に滞在する外国人が増えることが見込まれます。
そこでイギリス公使パークスが、幕府にホテルの建設を要請しました。
建設地に選ばれたのは、築地船板町の軍艦操練所の跡地。現在の中央卸売市場の立体駐車場のあたりです。
設計は、横浜の外国人居留地に土木建築事務所を開いていたアメリカ人リチャード・ブリジェンスに依頼されました。
ブリジェンスは横浜のイギリス仮公使館・イギリス領事館・横浜税関・横浜町会所などを手がけ、明治5年に完成した新橋駅・横浜駅(同じ設計図で両方を建てた)も設計しています。
幕府に金は無かった
問題は資金でした。ホテルの開設について、小栗忠順はこう提案します。
民間でこれを行なうものがあれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から資本を募り、利益を出資金に応じて分配する
東善寺に伝わる形では、江戸の町人を集めてこう語りかけたとされています。
今度江戸に外国人が住むことになる。ついてはホテルが必要だが、幕府は金がない。土地をただで貸すから、誰かホテル組合を作って町人から資金を集めてホテルを建設し、出来上がったあとは利用賃で運営し、それ以上に利益が出たら資本を出した者で分配してよい。やる者はいないか
土地は官が出し、金と運営は民が持つ。 万延元年の遣米使節でパナマ鉄道の会社の仕組みを見たことが下敷きになっている、と東善寺は説明しています。
これに応じたのが清水組(現在の清水建設)二代・清水喜助でした。
工事だけでなく、経営まで引き受けています。
出資の条件は1口100両で年100両の配当という途方もない触れ込みで、「山師の仕事」とも評されました。
1年で建った
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 着工 | 慶応3年8月9日(1867年9月6日) |
| 竣工 | 慶応4年8月10日(1868年9月25日) |
| 正式開業 | 明治元年11月19日(1869年1月1日) |
| 規模 | 2階建ての本館(一部3階・塔屋付)と平屋 |
| 延床 | 延1619.7坪(約5,354.4平方メートル) |
| 間口・奥行 | 間口40.5間(約73.6m)・奥行34.0間(約61.8m) |
| 客室 | 102室 |
| 設備 | 水洗トイレ、ビリヤード室、シャワー室、バー |
着工から竣工まで、ちょうど1年です。
完成した頃には、幕府はもうありませんでした。
王政復古で幕府は廃止され、完成の前月にあたる7月17日には江戸が東京と改称、完成の翌月の9月8日には明治と改元されています。
正式開業は東京開市が1年遅れたことに合わせて明治元年11月19日ですが、それ以前に仮営業して宿泊客を受け入れていたと推測されています。
アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』の中で、正式開業日より前に築地ホテルから食事を運ばせたり訪れたりしたことを書いているためです。
江戸の名所になった
外国人からは「眺望が良い、食事も美味しい」と評価されました。
それ以上に驚いたのは日本人のほうです。
ホテルも水洗トイレも見たことがないので、連日見物人が押し寄せました。
清水喜助は人を雇って門番をさせ、木戸銭(入場料)を取って見物させ、資金繰りの足しにしています。
土産物として作られた錦絵は100種類以上にのぼり、東京の名所になりました。
4年足らずで消えた
しかし築地の居留地はあまり発展せず、経営は次第に厳しくなります。
- 明治3年 清水喜助が経営から退く
- 明治5年正月14日(1872年2月22日) 建物が海軍の手に渡る
- 明治5年2月26日(1872年4月3日) 銀座大火で類焼、灰燼に帰す
海軍へ引き渡されてから1か月半後に焼けたことになります。寿命はわずか4年足らずでした。
「日本最初のホテル」ではない
築地ホテル館は「日本最初の本格的ホテル」です。「日本最初のホテル」ではありません。
万延元年(1860年)に横浜居留地でヨコハマ・ホテルが開業しており、そちらが日本最初のホテルにあたります。
なお、東善寺の解説ページは日本語と英語で年が食い違っています。
日本語は「慶応四年八月に完成」(1868年)ですが、英文は「completed in August of 1871」となっています。
着工が1867年で工期が1年なので、正しいのは日本語のほうです。
反射炉|大砲を鉄で作るための設備
もうひとつの柱が、兵器の国産化です。
前史|青銅の大砲では歯が立たなかった
黒船来航を受けて、幕府は嘉永6年(1853年)8月下旬から品川台場の建設を始めました。
そこへ据える大砲を作るため、湯島(現在の東京医科歯科大学の所在地)に幕府直営の湯島馬場大筒鋳立場が設けられます。
安政2年(1855年)の組織改革で小銃製造も行うようになり、湯島大小砲鋳立場と改称しました。
ただし、江川英龍の指導で鉄砲鍛冶が鋳造していたのは従来からの製法による青銅砲で、品質が低いという問題を抱えていました。
そこで欧州の先進技術を導入した新工場が計画されます。
関口製造所|小栗が責任者になる
文久2年(1862年)2月、関口水道町で新工場の建設が始まりました。
同年12月に小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられ、製造所頭取に武田斐三郎を、製造技術者に友平栄らを登用します。
それまで実務を取り仕切っていた江川の手代に代えて、気鋭の技術者を据えた人事でした。
関口が選ばれたのは水利のためです。
砲身に穴をあける錐鑚機の動力に水車を使うため、水の便が良い場所が必要でした。
施条機(砲腔に螺旋状の溝を切る機械)などはオランダ・フランスから輸入されています。
文久3年(1863年)に操業を開始。元治元年(1864年)には小栗によって事業の合理化が図られ、湯島大小砲鋳立場を廃止して関口製造所に統合しました。
滝野川反射炉
関口製造所で作れたのは青銅製の大砲でした。しかし当時の欧州はすでに鉄製大砲の時代です。
そこで元治元年(1864年)、関口に反射炉を建てる計画が立てられます。
ところが関口は低湿地で反射炉に不向きだったため、適地を探して滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所の所在地)に決まりました。
- 責任者: 武田斐三郎
- 耐火煉瓦: 伊豆・梨本から運搬
- 器材: 韮山反射炉で使っていたものを移転
- 完成: 慶応2年(1866年)
さらに小栗は、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に日本初の西洋式火薬工場を建設しています。
明治政府に引き継がれた
明治元年(1868年)、新政府は関口製造所と滝野川反射炉を接収し、軍務官の管轄に置きました。
1870年3月に兵部省へ造兵司が新設されてこの2つを管轄し、1871年には両施設の設備をもとに、小石川の旧水戸藩邸跡(のちの後楽園遊園地の場所)へ東京工場が建設されます。
これが東京砲兵工廠の始まりです。
横須賀製鉄所と同じく、幕府が作ったものがそのまま明治の軍需産業になりました。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗忠順
関口も滝野川も、新政府が接収したそうだな。
ヴェルニー
横須賀と同じです。作った者の名は残らず、施設だけが次の持ち主のもとで働き続けました。滝野川の設備は、東京砲兵工廠のもとになっています。
中小坂鉄山|唯一、間に合わなかった事業
横須賀製鉄所を作るには大量の鉄が要ります。
そこで注目されたのが、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)の鉄山でした。
万延元年遣米使節でワシントン海軍工廠などを見学した小栗は、日本に鉱工業を興す必要を痛感していました。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 慶応元年(1865年)5月 | 小栗らが中小坂鉄山の開発と溶鉱炉建設を建議 |
| 慶応元年 閏5月 | 武田斐三郎らが現地を見分 |
| 慶応元年10月12日 | 幕府が領主の小幡藩主へ溶鉱炉建設を通達 |
| 慶応2年(1866年) | 溶鉱炉建設のための水運を調査 |
| 慶応3年10月14日 | 大政奉還。幕府の手による建設は実現しなかった |
見分の結果は良好でした。鉄鉱石の埋蔵量は豊富で、品位も極めて高い。
ただし近くで採れる石炭の供給量が足りないため、当面は木炭を使う方針とされ、予算の都合からまず1基だけ建てることが望ましいと報告されています。
木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と勘定奉行のあいだで協議も行われました。
しかし大政奉還が先に来ました。
中小坂鉄山そのものは、明治7年(1874年)にイギリス人技師を雇って洋式高炉を建設し、民間経営で良質な鉄を比較的安価に生産することに成功します。
日本の製鉄業の草分けとなり、昭和36年(1961年)まで断続的に操業しました。
産業遺産は、平成21年(2009年)に経済産業省の「近代化産業遺産群 続33」に認定されています。
共通しているのは「民間の金で公共物を作る」型
築地ホテル館の仕組みは、小栗が同じ時期に建議した兵庫商社とよく似ています。
- 幕府は土地と枠組みを出す
- 資金は民間から募る
- 利益は出資額に応じて分配する
万延元年の遣米使節でパナマ鉄道の会社の仕組みを説明されたことが、どちらの発想にもつながっている、と東善寺は説明しています。
財政難の幕府が、それでも大きな事業を動かすための方法だったと言えます。
小栗忠順
幕府に金は無い。だから土地と枠組みだけを出して、金と商いは町人に持ってもらった。
ヴェルニー
築地の宿も、兵庫の商社も同じ組み立てですね。出した者に利が戻る形にしておけば、官の金が無くても事は動く。パナマでご覧になった会社の仕組みだと伺いました。
跡地はいまどうなっているか
いずれも建物は残っていません。「その場所に何が建っているか」として整理します。
| 事業 | 場所の現在 |
|---|---|
| 築地ホテル館 | 東京都中央区。勝鬨橋の右たもと、立体駐車場のあたり |
| 湯島大小砲鋳立場 | 東京医科歯科大学の所在地 |
| 関口製造所 | 文京区・関口水道町のあたり |
| 滝野川反射炉 | 酒類総合研究所 東京事務所の所在地 |
| 東京砲兵工廠 | 小石川の旧水戸藩邸跡(のちの後楽園遊園地) |
| 中小坂鉄山 | 群馬県甘楽郡下仁田町中小坂。高炉跡が産業遺産として残る |
見学施設として整備されているかどうかは場所ごとに異なります。
訪ねるときは、それぞれの自治体や施設の公式情報で公開状況を確かめてください。
築地ホテル館については、東善寺に錦絵(三代広重画ほか)と、大学院生が作った模型が展示されています。
よくある質問
築地ホテル館は誰が作ったのですか
建てて経営したのは清水組二代・清水喜助、設計はアメリカ人のリチャード・ブリジェンスです。
イギリス公使パークスの要請を受けて幕府が場所を用意し、資金を民間から集める仕組みを示したのが小栗忠順でした。
築地ホテル館はいつまであったのですか
明治5年2月26日(1872年4月3日)の銀座大火で焼失しました。竣工が1868年9月なので、寿命は4年足らずです。
築地ホテル館の跡地には何がありますか
東京都中央区、勝鬨橋の右たもとにあたる立体駐車場のあたりです。手前の角を曲がると波除稲荷、そして元の築地市場へ続きます。
反射炉はどこにあったのですか
滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所の所在地)です。
当初は関口に建てる計画でしたが、低湿地で不向きと分かって移されました。器材は韮山反射炉から移設されています。
小栗はなぜこんなに手を広げたのですか
軍艦を作るには、鉄・大砲・火薬・資金・外国人の宿までが一続きに必要だったからです。
横須賀製鉄所は単体の工場ではなく、鉄山から兵器工場まで含む一式として構想されていました。
もっと詳しく知るには
小栗の事業を通史でたどれる本が出ています。
この記事の出典
資金の仕組みと江戸の町人への口上は東善寺「兵庫商社・築地ホテル・小布施の船会社」によります(2026年8月25日確認)。