戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、新政府軍と旧幕府軍が戦った日本の近代史で最大の内戦です。

慶応4年(1868年)1月に京都の南で始まり、翌明治2年(1869年)5月に北海道・箱館で終わりました。
1年5か月で日本列島を南から北へ移動していった戦争です。

名前の由来は、慶応4年・明治元年の干支が「戊辰(つちのえたつ)」だったことによります。

このページでは、5つの局面に分けて流れを追い、結果として何が変わったのかまで整理します。

戊辰戦争とは|まず押さえる5項目

項目 内容
期間 慶応4年1月3日〜明治2年5月18日(1868年1月27日〜1869年6月27日)
戦った相手 新政府軍(薩摩・長州・土佐など)/旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国
結果 新政府軍の勝利
主な戦い 鳥羽・伏見/江戸開城/上野/東北(会津)/箱館
意味 明治新政府が日本の合法政府として国際的に認められた

日付は、断りがなければ旧暦で書きます。

なお、開戦日には少し幅があります。
1月3日に鳥羽・伏見で戦闘が始まりましたが、その前日の1月2日夕方、
兵庫沖で幕府の軍艦が薩摩藩の軍艦を砲撃しており、これを事実上の開戦とみる見方もあります。

戊辰戦争の年表

時期(旧暦) 出来事
慶応3年10月14日 徳川慶喜が大政奉還を奏上
12月9日 王政復古の大号令。幕府廃止と新体制樹立を宣言
12月25日 幕府軍が江戸・三田の薩摩藩邸を砲撃
慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦いが始まる
1月4日 錦の御旗が掲げられ、新政府軍が「官軍」になる
1月6日夜 慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ
1月15日 慶喜が小栗忠順を罷免
2月12日 慶喜が上野・寛永寺で謹慎
3月14日 勝海舟と西郷隆盛が会談。江戸総攻撃が中止に
4月11日 江戸城が無血開城
5月15日 上野戦争。1日で決着
8月21日〜 母成峠の戦いから会津戦争へ
9月22日 会津藩が降伏
明治2年5月18日 箱館戦争が終わり、戊辰戦争終結

なぜ戊辰戦争が起きたのか

大政奉還は「空文」になっていた

慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は統治権を天皇へ返しました。大政奉還です。

ところが朝廷は、諸侯会議が開かれるまでの緊急政務を引き続き慶喜に委任し、将軍職もそのままとしました。
つまり政権を返したはずなのに、実際には慶喜が政治を握り続ける状態になったのです。

慶喜の狙いは、徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われています。

→ 大政奉還とは|なぜ行われたのかをわかりやすく

これに業を煮やした薩摩藩などが動き、12月9日に王政復古の大号令が出されます。
幕府の廃止と新体制の樹立が宣言され、慶喜には内大臣の辞職と領地の返納(辞官納地)が求められました。

慶喜はこれを拒否し、二条城から大坂城へ移ります。

江戸で挑発が続いた

京都での駆け引きと並行して、江戸では別のことが起きていました。

薩摩藩は、幕臣や佐幕派の藩を挑発するため、江戸の薩摩藩邸に浪士たちを集めます。
彼らは夜ごと商家を襲い、下手人は必ず薩摩藩邸へ逃げ込みました。
江戸の人々はこの集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れたと伝えられます。

12月23日には江戸城の西ノ丸が焼失。
ついに幕府は12月25日、三田の薩摩藩邸を包囲して砲撃しました。

この一報が大坂城に届き、旧幕府側は一気に沸騰します。
慶喜は薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩表)を提出し、軍勢を京都へ向かわせました。

① 鳥羽・伏見の戦い|わずか4日で決着

慶応4年1月3日、京都の南郊外にあたる鳥羽と伏見で戦闘が始まりました。

兵力は新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われています。
数のうえでは旧幕府軍が3倍でした。

装備でも旧幕府軍が劣っていたわけではなく、むしろ最新型の小銃を持っていました。
それでも初日から苦戦します。原因は緒戦の混乱と、指揮・戦略の不備でした。

錦の御旗が戦局を変えた

1月4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられ、錦の御旗が授けられました。
これで新政府軍は「官軍」になり、旧幕府軍は「賊軍」になります。

この瞬間、戦いの意味が変わりました。
幕府に味方していた藩が、次々と動揺しはじめます。

1月5日、淀藩は旧幕府軍の入城を拒否。
1月6日には、山崎の砲台にいた津藩が旧幕府軍に向けて砲撃を始めました。

慶喜が大坂城を捨てた

1月6日の夜、慶喜は自軍を置いたまま、少数の側近だけを連れて大坂城を脱出し、海路で江戸へ向かいました。

この時点でも、総兵力では旧幕府軍が上回っていました。
しかし総大将がいなくなったことで戦争の目的そのものが失われ、各藩は戦いをやめて兵を引き上げます。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

西郷隆盛

西郷隆盛

兵の数はそちらが三倍、鉄砲も新しいものをお持ちでごわした。

徳川慶喜

徳川慶喜

四日に錦の御旗が出て、こちらが賊軍になった。淀は城へ入れず、津は味方へ向けて撃った。余が大坂を出たのは、その翌日だ。

② 江戸城無血開城|戦わずに江戸が明け渡された

新政府は東征軍を編成し、東海道・東山道・北陸道の3方向から江戸を目指しました。

3月6日の軍議で、江戸城総攻撃は3月15日と決まります。

これを止めたのは、2つの力でした。

ひとつは外国です。
戦乱が貿易に悪影響を与えることを恐れたイギリス公使ハリー・パークスが、新政府に江戸攻撃の中止を求めました。
新政府にとって、諸外国との良好な関係は政権維持の条件でした。

もうひとつが、旧幕府側の交渉です。
陸軍総裁の勝海舟は、幕臣・山岡鉄舟を使者として西郷隆盛のもとへ送り、その後3月13日・14日に自ら西郷と会談しました。
結果、15日の総攻撃は中止されます。

4月11日、江戸城は無血開城されました。
城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれ、同じ日に慶喜は水戸へ向かいます。

→ 勝海舟とは|幕末の海軍を作った男の生涯

小栗忠順が罷免されたのは、この直前

江戸に戻った慶喜が最初にしたことのひとつが、人事でした。

1月15日、慶喜は幕府主戦派の中心人物だった小栗忠順を罷免します。

小栗は徹底抗戦を主張していました。
その主張が通っていれば、江戸城の無血開城はなかったかもしれません。

罷免された小栗は、上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ移ります。
そして閏4月、新政府軍に捕らえられ、取り調べもないまま斬首されました。

→ 小栗忠順はなぜ殺されたのか|斬首に至った理由を解説

③ 上野戦争|1日で終わった市街戦

江戸城が明け渡されても、それに従わない旧幕臣がいました。

上野の寛永寺には彰義隊が立てこもります。
彼らは江戸の治安を統括する組織として新政府にも認められていましたが、実際には新政府軍の兵士への襲撃を繰り返していました。

大総督府は、彰義隊を懐柔しようとしていた西郷隆盛を司令官から外し、長州藩の大村益次郎を新司令官にします。
大村は武力での殲滅を主張しました。

5月15日、新政府軍・約10,000人が彰義隊・約4,000人を攻撃。
佐賀藩が装備していたアームストロング砲が使われ、戦いはたった1日で新政府軍の圧勝に終わりました。

④ 東北戦争|会津はなぜ戦うことになったのか

戦いの舞台は東北へ移ります。

会津藩主・松平容保は、京都守護職として尊王攘夷派を取り締まる立場にありました。
その過程で薩摩・長州から強い恨みを買っています。

さらに鳥羽・伏見では会津藩と桑名藩が旧幕府軍の主力となり、敗北して朝敵と認定されました。

容保は新政府へ嘆願書を出しましたが、武装は解かず、出頭にも応じませんでした。
江戸で薩摩藩の騒乱行為を取り締まった庄内藩も、同じく報復を予期して会津と手を結びます(会庄同盟)。

こうして東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍と戦うことになりました。

8月21日、新政府軍は防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻します。
会津軍の主力は領内南部や領外にいて、若松城への備えが手薄でした。

会津藩兵は若松城に籠城。この籠城戦のさなかに白虎隊の悲劇が起きています。

降伏は、次の順で進みました。

日付(旧暦) 降伏した藩
9月4日 米沢藩
9月10日 仙台藩
9月22日 会津藩
9月24日 庄内藩

⑤ 箱館戦争|蝦夷地での最後の抵抗

行き場を失った旧幕府軍は、榎本武揚に率いられて蝦夷地(北海道)へ渡り、五稜郭を拠点としました。

明治2年5月18日、この抵抗が終わって戊辰戦争は幕を閉じます。

戦いの最中の明治元年11月、新政府は横浜で欧米列強と交渉していました。
榎本らが「政府ではなく脱走兵にすぎない」ことを示すためです。

約2か月の議論を経て12月28日、条約各国が局外中立の解除を布告しました。
これにより、明治新政府は日本を統治する唯一の合法政権として国際的に認められます。

戊辰戦争が持っていた意味は、国内の決着だけではありませんでした。

徳川慶喜

徳川慶喜

箱館が終わって、ようやく戦は幕を閉じたわけか。

西郷隆盛

西郷隆盛

それだけではごわはん。明治元年の暮れに条約各国が局外中立を解きもした。新政府が日本を治める唯一の政権と、外から認められたとです。内輪の決着だけの戦ではありもはんでした。

戊辰戦争の結果

犠牲者の数

研究者・井上清の集計による数字です。

陣営 戦死 負傷
新政府軍 3,556人 3,804人
旧幕府軍 4,707人 1,518人

新政府軍は12万人を動員したとされます。
旧幕府側の総兵力については、出典を示した資料が見当たらず、確かな数字とは言えません。

戦後処理

慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助(徳川家達)に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を与えると発表しました。

一方、戦った藩には重い処分が下りました。

藩 処分
仙台藩 62万石 → 28万石(34万石の減封)
会津藩 23万石 → 陸奥斗南藩3万石へ転封
盛岡藩 20万石 → 白石13万石へ転封

会津藩主父子は江戸で永禁固(のちに解除)となり、家老1名が処刑されています。

勝った側には賞典禄が与えられました。
薩摩の島津久光父子と長州の毛利敬親父子が10万石、土佐の山内豊信父子が4万石です。

この戦いが明治という時代へどうつながったのかは、明治維新のページで整理しています。

→ 明治維新とは|わかりやすく年表で流れをつかむ

戊辰戦争と小栗忠順

小栗忠順にとって、戊辰戦争は「戦えなかった戦争」でした。

鳥羽・伏見の敗報を受けて江戸へ戻った慶喜に、小栗は徹底抗戦を説いたと伝えられます。
しかし主戦派の中心と見なされた小栗は、1月15日に罷免されました。

その後の展開はすでに見たとおりです。
江戸城は戦わずに明け渡され、小栗は権田村で斬首されました。

新政府から見れば、小栗は最後まで抵抗を主張した「逆賊」でした。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』というタイトルは、この評価から取られています。

→ 逆賊の幕臣とは|2027年大河ドラマの完全ガイド

なお、戊辰戦争の直前に小栗が幕府の金を隠したという噂が、のちの徳川埋蔵金伝説につながっていきます。

→ 徳川埋蔵金とは|伝説の全体像をわかりやすく解説

よくある質問

戊辰戦争はいつからいつまでですか

慶応4年1月3日から明治2年5月18日まで(1868年1月27日〜1869年6月27日)です。
約1年5か月続きました。

戊辰戦争はなぜ起きたのですか

大政奉還のあとも慶喜が実質的に政権を握り続けたこと、王政復古で辞官納地を求められた慶喜がこれを拒否したこと、
そして江戸での薩摩藩の挑発と薩摩藩邸焼き討ちが重なったためです。

戊辰戦争で戦ったのは誰と誰ですか

薩摩・長州・土佐などを中核とする新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国です。

戊辰戦争の名前の由来は何ですか

慶応4年(明治元年)の干支が戊辰だったためです。

江戸城はなぜ戦わずに明け渡されたのですか

イギリス公使が貿易への影響を懸念して総攻撃の中止を求めたこと、
勝海舟と西郷隆盛の交渉がまとまったこと、この2つが重なったためです。

会津戦争はいつですか

慶応4年8月21日の母成峠の戦いから始まり、9月22日の会津藩降伏で終わりました。

戊辰戦争で何人が亡くなりましたか

井上清の集計では、新政府軍の戦死3,556人、旧幕府軍の戦死4,707人です。


幕末全体の流れをつかみたい場合は、年表のページから読むと分かりやすくなります。

→ 幕末とは|年表と流れをわかりやすく解説

戊辰戦争や小栗忠順をもっと詳しく読みたい場合は、本を選ぶページを用意しました。

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

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