江戸無血開城は、慶応4年(1868年)4月11日に江戸城が新政府軍へ引き渡された出来事です。
人口100万人を超える当時世界最大級の都市を、戦火に巻き込まずに明け渡したことから「無血」と呼ばれます。
ただしこの結末は、最初から決まっていたわけではありません。
その3か月前、幕府の内部では抗戦論が強く、具体的な作戦まで用意されていました。中心にいたのが勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順です。
このページでは、江戸無血開城に至る流れと、退けられたもう一つの選択肢を並べて整理します。
江戸無血開城とは|3行でまとめると
- 慶応4年4月11日、江戸城が戦闘なしで新政府軍へ引き渡された
- 決め手になったのは3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の会談で、その前段に山岡鉄舟の交渉があった
- 徳川慶喜は同日、謹慎先の寛永寺から水戸へ発った
なお、この出来事は「江戸開城」「江戸城明け渡し」「江戸城無血開城」とも呼ばれます。同じものを指す別の呼び名です。
そこに至るまで|徳川家には2つの選択肢があった
慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、軍を捨てて大坂城から江戸へ戻ります。
新政府はすでに慶喜追討令を発しており、東征軍の襲来は時間の問題でした。
このとき徳川家が取りうる道は、2つしかありませんでした。
- 徹底恭順 — 抵抗せず、処分を受け入れる
- 抗戦 — 佐幕派の諸藩と組んで戦い、形勢を逆転させる
小栗忠順が示した抗戦策
抗戦を主張したのが、小栗忠順と軍艦頭の榎本武揚らです。
小栗の作戦は、具体的にはこういうものでした。
- 敵軍を箱根以東に誘い込む
- 戦力で勝る徳川海軍が駿河湾へ出動して敵の退路を断つ
- フランス式の演習で鍛えた徳川陸軍で、挟み撃ちにして一挙に粉砕する
- さらに海軍を兵庫・大坂方面へ送り、近畿を奪還する
海軍力の優位と、フランス式に訓練された陸軍という当時の実勢を踏まえた策でした。
横須賀製鉄所を建設し、フランスの協力で軍制改革を進めてきた小栗だからこそ組み立てられた作戦だと言えます。
慶喜はこれを退けた
しかし慶喜は恭順に傾いており、この策を容れませんでした。
小栗忠順は正月15日に罷免されます(勝海舟の項では正月14日とされており、資料によって1日ずれます)。
ここで押さえておきたいのは、次の2点です。
- 抗戦論は小栗だけのものではありませんでした。当時の幕臣の多くは主戦論で、「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など案は割れていました。小栗案はそのうちの一つです
- フランス公使レオン・ロッシュも、たびたび登城して慶喜に抗戦を提案しています。慶喜はそれも退けました
つまり「小栗が抗戦、勝が恭順」という一騎打ちの図ではなく、恭順を選んだ慶喜と、それに納得しない幕臣たちという構図のほうが実際に近いものでした。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
西郷隆盛
小栗どんが抗戦、勝さんが恭順。そういう一騎打ちの図で語られておりもす。
勝海舟
そんな綺麗な図じゃないさ。あのころの幕臣は主戦論のほうが多くてね、軍艦で大坂城を叩くの、富士川で食い止めるの、碓氷峠で防ぐのと、案は割れていた。フランスのロッシュ公使まで登城して抗戦を勧めていたんだ。恭順を決めたのは慶喜公で、おれはその始末を引き受けた側さ。
正月23日には、恭順派を中心に据えた人事変更が行われます。
陸軍総裁に勝海舟、会計総裁に大久保一翁が就き、この2人が事実上の最高指揮官として恭順策を実行していくことになりました。
罷免された小栗忠順は、領地の上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ引きます。
→ 権田村(高崎市倉渕)を歩く|小栗忠順が過ごした最後の日々
交渉はどう進んだか
山岡鉄舟が駿府へ行った(3月9日)
寛永寺で謹慎していた慶喜は、護衛の高橋泥舟に恭順の意を伝えてほしいと頼みます。高橋が推薦したのが、義弟で精鋭隊頭の山岡鉄舟でした。
山岡は西郷隆盛と面識がなかったため、まず陸軍総裁の勝海舟を訪ねます。勝は初対面の山岡を高く評価し、西郷への書状と、保護していた薩摩藩士・益満休之助を護衛につけて送り出しました。
山岡を「勝の使者」と説明する本がありますが、徳川慶喜が直々に命じた使者だとする研究があります。『逆賊の幕臣』の時代考証を務める岩下哲典さんの著書『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?』も、その立場です。
駿府で山岡と会った西郷は、江戸城総攻撃の回避条件として7か条を提示しました。
- 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること
- 江戸城を明け渡すこと
- 軍艦をすべて引き渡すこと
- 武器をすべて引き渡すこと
- 城内の家臣は向島に移って謹慎すること
- 慶喜を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること
- 暴発する者が手に余る場合、官軍が鎮圧すること
山岡は第1条だけは絶対に受けられないとして拒否し、西郷と押し問答になります。
勝・西郷会談(3月13日・14日)
3月13日と14日に、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われました。
14日に勝が示した回答は、次のような内容です。
- 慶喜は備前藩ではなく故郷の水戸で謹慎する
- 慶喜を助けた諸侯には命に関わる処分を出さない
- 武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下されてから引き渡す
- 城内の者は城外へ移って謹慎する
- 明け渡しの手続きが終わったら、江戸城は即刻田安家へ返してほしい
- 暴発する士民の鎮定は可能な限り努力する
これは山岡へ示された条件をほぼ骨抜きにした、事実上の拒否回答でした。
それでも西郷は勝と大久保一翁を信頼し、翌15日に予定していた江戸城進撃を中止、自らの責任で回答を京都へ持ち帰ることを約束します。ここで無血開城が事実上決まりました。
同じ3月14日、京都では五箇条の御誓文が発布されています。
勝が用意していた焦土作戦
勝は交渉に臨むにあたり、万一のための焦土作戦を準備していたと後年語っています。
歎願が聞き入れられず攻撃に移られた場合、あるいは受け入れがたい条件しか出ない場合は、江戸城と江戸の町に火を放って敵の進軍を防ぐ、という計画です。ナポレオンを苦しめたモスクワの戦法を参考にしたものの、火災後は江戸湾に集めておいた雇い船で避難民を救出する点が違う、とも述べています。
ただしこれは勝自身が後から語った話です。
勝には特有の大言癖があったと指摘されており、この話をどこまで信じてよいかは分かりません。準備が実在したかどうかは確かめられていません。
西郷隆盛
江戸を焼く支度をしておられた、と伝わっておりもす。
勝海舟
それは後になっておれが語った話さ。歎願が通らねば城と町に火を放って進軍を止め、江戸湾に集めておいた雇い船で人を逃がす——モスクワの手を借りた筋書きだよ。もっとも、その支度が本当にあったかは、いまとなっては確かめようがない。おれは大言が過ぎると言われる男だからな。
明け渡し(4月11日)
4月4日、大総督府と徳川宗家の間で最終合意に達し、東海道先鋒総督の橋本実梁らが兵を率いて江戸城へ入城しました。慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許すという勅旨が下されます。
9日に静寛院宮が、10日に天璋院が城を退去。
11日、慶喜は寛永寺から水戸へ発ち、同日をもって江戸城は大総督府に接収されました。
4月21日には東征大総督の熾仁親王が入城し、明け渡しが完了します。
何が変わったのか
江戸無血開城の最大の成果は、当時世界最大規模の都市を戦火から守ったことです。勝は後年、西郷を「江戸の大恩人」と讃えました。
同時にこれは、日本統治の正統性が徳川家から朝廷へ移ったことを示す象徴的な出来事でもあります。
旧幕臣のジャーナリスト・福地桜痴は、著書『幕府衰亡論』で江戸幕府の滅亡をこの江戸開城の時点としています。
戦いは終わらなかった
ただし「無血」で済んだのは江戸城だけです。
新政府軍は諸藩の緩やかな連合体にすぎず、結束を保つには倒すべき敵が必要でした。
そこで矛先が向いたのが、降伏条件でも問罪の対象に名指しされていた会津藩、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩、そして去就を明らかにしていなかった東北諸藩です。
木戸孝允は「会津藩を討伐しなくては新政府は成り立たない」という趣旨を大久保利通に書き送っており、大久保も同意しています。
江戸城の無血開城のあと、戦火は上野戦争、そして東北へと移っていきました。
小栗忠順はそのときどこにいたか
ここが混同されやすいところです。
小栗忠順は江戸無血開城の交渉に加わっていません。すでに正月に罷免されており、群馬の権田村にいました。
その権田村で、閏4月4日に新政府軍に捕らえられます。
そして閏4月6日、取り調べを受けないまま斬首されました。江戸城が明け渡された4月11日の、およそ1か月後にあたります。
新政府軍が挙げた理由は、武器を多数所有しているという噂と、総督府へ出頭しなかったことでした。
江戸城が無血で明け渡された同じ年に、抗戦を唱えた幕臣が裁判なしで斬られている。
「無血開城」という言葉だけでは見えないところです。
幕末全体の流れは、年表のページで通して追えます。
この時期をもう少し深く読みたい場合は、評伝や研究書が複数出ています。
よくある質問
江戸無血開城はいつですか
慶応4年(1868年)4月11日です。江戸城が新政府軍へ引き渡され、同じ日に徳川慶喜が水戸へ発ちました。
誰と誰が交渉したのですか
3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の会談が決め手ですが、その前に山岡鉄舟が駿府で西郷と会い、開戦回避の条件を持ち帰っています。
小栗忠順はなぜ反対したのですか
正確には、小栗忠順が反対したのは無血開城そのものではなく、その前段にあった恭順の方針です。海軍で敵の退路を断ち、フランス式に訓練した陸軍で迎え撃つという抗戦策を示しましたが、慶喜に容れられず正月に罷免されました。
本当に一滴も血が流れなかったのですか
江戸城の明け渡し自体は戦闘なしで行われました。ただし同じ年に上野戦争が起き、戦火は東北へ広がっています。小栗忠順も閏4月6日に斬首されました。
勝海舟が江戸を救ったということですか
勝海舟が交渉の中心にいたのは確かですが、山岡鉄舟の役割を重く見る研究もあり、評価は一つに定まっていません。誰が功労者かを問い直す本も出ています。