勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の財政を握った役職です。

そして幕末には、開国に対応するため外国奉行と軍艦奉行という新しい奉行が作られました。

小栗忠順はこの3つを全部務めています。
それぞれ何をする役なのかを、仕事の中身と待遇から整理します。

3つの奉行の違い

勘定奉行 外国奉行 軍艦奉行
設置 勘定所は慶長10年(1605年)には設置 1858年(安政5年) 安政6年(1859年)
担当 財政、幕府直轄領の支配 外交の実務 幕府海軍の統括
役高 3,000石(享保8年に確定) 2,000石 資料に記載なし
給金 御役入用金 年300両(宝暦4年から) 年200両 資料に記載なし
定員 約4人 不定 不定
上役 老中 老中(1867年以降は外国惣奉行) —
廃止 幕府の終焉まで 1868年 幕府の終焉まで

勘定奉行だけが江戸時代を通してあった役職で、残る2つは開国後に作られた役職です。

勘定奉行とは何をする役職か

勘定奉行は勘定所の最高責任者です。

担当していたのは、財政と、幕府直轄領(天領)を支配する郡代や代官の指揮監督でした。
老中の支配下にある役職です。

勘定所の正確な設置時期は不明ですが、史料の上では慶長10年(1605年)には設置されていたとみられています。

江戸幕府の成立直後は、家康の駿府政権と秀忠の江戸政権の二元体制で、それぞれに勘定所が置かれていました。
元和2年(1616年)に駿府政権が解体されたことで、江戸の勘定所に一元化されます。

なお元禄年間までは「勘定頭(かんじょうがしら)」とも呼ばれていました。

財政だけの役ではない

勘定奉行の担当範囲は、財政にとどまりません。

  • 金融・経済
  • 交通・運輸(元禄11年〈1698年〉から道中奉行を兼帯)
  • 長崎貿易
  • 警察・裁判
  • 治水
  • 幕末期は海防掛の一員として国防も

家光の時代までは、幕領や代官の支配、金銀出納などは寄合衆(老中)や留守居の職務でした。
それが寛永19年(1642年)に勘定頭の職務とされ、権限が集まっていきます。

幕末に至って国防まで担当範囲に入っているところが、この役職の性格をよく表しています。
金を扱う役が、そのまま国を守る話に関わることになった、ということです。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗鉞子

小栗鉞子

勘定奉行というのは、お金の勘定をするお役目ですか。

小栗忠順

小栗忠順

それだけではない。金融も、街道も、長崎の貿易も、裁きも、治水も入る。幕末には海防掛として国を守る話まで受け持った。いまのどこか一つの役所に当てはめられる役ではないのだよ。

待遇はどれくらいか

  • 定員は約4人
  • 役高は享保8年(1723年)に3,000石と定められた
  • 宝暦4年(1754年)からは御役入用金として年300両が支給された

3,000石は、旗本としては高い水準です。
参考までに、小栗忠順の家は禄高2,500石の旗本でした。

勝手方と公事方に分かれている

資料を読むと「勘定奉行・勝手方」という表記が出てきます。
これは享保の改革によるものです。

享保6年(1721年)に勘定所が、年貢や知行割などを扱う勝手方と、公事や訴訟などを扱う公事方に分かれました。
翌享保7年(1722年)からは、勘定奉行と、幕府財政の監査・監察を担う勘定吟味役も、勝手方と公事方を分掌することになります。

小栗忠順の役職履歴にたびたび出てくる「勘定奉行・勝手方」は、財政実務のほうの担当という意味です。

三奉行と評定所一座

勘定奉行は、寺社奉行・町奉行とともに「三奉行」とされ、ともに評定所を構成しました。

寛永12年(1635年)以降、三奉行を主たる構成員とする寄合が置かれ、これは後に「評定所一座」と称されます。
ここに大目付なども加わって、訴訟や裁決を行いました。

享保7年(1722年)以降は、式日への出席は公事方勘定奉行のみとされましたが、これとは別に、三奉行がそれぞれ月番の役宅に集まって審議する「内寄合」がありました。

つまり勘定奉行は、財政の長でありながら、幕府の司法の一角も占めていたことになります。

外国奉行とは何をする役職か

外国奉行(がいこくぶぎょう)は、幕末に外交を担当した役職です。

1858年(安政5年)、海防掛だった井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約の交渉が行われました。
条約締結の後に海防掛は廃止され、代わって外交専門の機構として外国奉行が設置され、井上・岩瀬ら5人が任命されます。

主な仕事は、対外交渉などの実務でした。

  • 人数は不定。一時期、神奈川奉行を兼任していた
  • 上役は老中。ただし1867年には、これを統括する外国惣奉行(若年寄格)が設置された
  • 1868年に廃止
  • 役高は2,000石、1年の給金は200両。席次は遠国奉行の上

「外国方」という部局

外国奉行の配下には、支配組頭・支配調役・支配調役並・定役・同心といった役職がありました。
奉行とそれらの配下によって「外国方」という部局が作られていました。

さらにその中には、「外国方」の優れた人物で構成される「御書翰掛」という重要機関がありました。
ここには調役・通弁方・翻訳方・書物方といった役職が置かれ、次の仕事に当たっています。

  • 外国からの文書の翻訳
  • 外国との交渉案の作成
  • 外国へ送る文書の文章案の作成

なお、奉行のことを「方」と言い、外国奉行当人を指して「外国方」と呼ぶ場合もあります。

軍艦奉行とは何をする役職か

軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)は、安政6年(1859年)に設置された役職です。

担当は次の3つです。

  • 幕府海軍の統括
  • 軍艦の製造・購入
  • 操錬技術者の育成

そして万延元年(1860年)には、咸臨丸を出航させています。

このとき提督として咸臨丸に乗ったのが軍艦奉行の木村芥舟で、艦長が勝海舟、航海長にあたる測量方兼運用方が小野友五郎でした。

歴代の軍艦奉行には、勝海舟(1864年、1866年〜1868年)と小栗忠順(1864年〜1865年)の両方が名を連ねています。
のちに主戦と恭順で対立する二人が、同じ役職を交代で務めていたことになります。

→ 咸臨丸とは|太平洋を渡った船と乗っていた人たち

小栗忠順は3つ全部を務めた

小栗忠順の幕府役職履歴を、この3つの奉行に絞って並べると次のようになります。

役職 在職
外国奉行 1860年〜1861年(文久元年7月26日に辞して寄合席)
勘定奉行 1862年/1862年〜1863年/1864年/1865年〜1868年
軍艦奉行 1864年12月18日〜元治2年2月21日

勘定奉行は4度就いています。
率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたものの、そのたびに才腕を惜しまれて戻されたと記録されています。

小栗鉞子

小栗鉞子

父上は勘定奉行に四度も就かれたのですね。

小栗忠順

小栗忠順

物言いが率直すぎると疎まれて、そのたび役を替えられた。それでまた呼び戻される。四度というのは、そういう数だ。

このほかに、南町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、海軍奉行並、講武所御用取扱なども務めました。
役職の数が異様に多いのは、この人が一つの分野の専門家として扱われていなかったことの表れでもあります。

そして慶応4年(1868年)1月15日、陸軍奉行並と勘定奉行を御役御免となります。
これが罷免です。

→ 小栗忠順とは何をした人か|生涯をわかりやすく解説

勘定奉行だったから埋蔵金の噂が立った

小栗の逮捕理由として、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠したという説(徳川埋蔵金説)が挙げられることがあります。

ただし、こうした説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。

つまり「勘定奉行だった」という事実そのものが、伝説の材料になったということです。
幕府の金庫の鍵を持っていた人が、幕府が消えた直後に斬られたためです。

→ 徳川埋蔵金とは|伝説の全体像をわかりやすく解説

同じ役職を務めた人たち

この3つの奉行を務めた人物の中には、小栗の周辺として名前が出てくる人が多くいます。

人物 務めた奉行
栗本鋤雲(栗本鯤) 外国奉行(1865年〜1867年)、勘定奉行(1867年)
小野友五郎(小野広胖) 勘定奉行(1867年〜1868年)
勝海舟 軍艦奉行(1864年、1866年〜1868年)
朝比奈昌広 勘定奉行(1866年〜1867年、1868年)、外国奉行(1865年〜1867年)
駒井朝温 勘定奉行(1864年、1865年〜1866年)
塚原昌義 勘定奉行(1866年〜1867年)、外国奉行(1866年〜1867年)
水野忠徳 勘定奉行(1854年〜1857年)、外国奉行、軍艦奉行(1859年)
木村芥舟(木村喜毅) 軍艦奉行(1859年〜1863年、1867年〜1868年)、勘定奉行(1868年)

朝比奈昌広(芝大輔さん)と駒井朝温(高橋光臣さん)は、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』でも配役が発表されています。

→ 『逆賊の幕臣』キャスト一覧|発表済みの配役をまとめて確認

3つの奉行と「日本初の株式会社」

小栗が勘定奉行として手がけた事業のうち、いちばん経済史に残っているのが兵庫商社です。

勘定奉行は財政の長ですから、貿易の仕組みそのものを作り替える建議ができる立場でした。
外国奉行として外国との交渉を経験し、軍艦奉行として艦船の購入額を見ていた人が、勘定奉行として資本の話を持ち出した、という順番になります。

→ 日本初の株式会社「兵庫商社」とは|小栗の経済構想

よくある質問

勘定奉行とは今の何にあたりますか

幕府の財政と直轄領の支配を担った役職で、財務の長にあたります。
ただし金融・経済、交通・運輸、長崎貿易、警察や裁判、治水、幕末には国防まで担当範囲に含んでいたため、現在の一省庁と単純に対応させることはできません。

勘定奉行の石高はいくらですか

役高は享保8年(1723年)に3,000石と定められました。
宝暦4年(1754年)からは、これに加えて御役入用金として年300両が支給されています。

勘定奉行は何人いたのですか

定員は約4人です。
享保6年(1721年)以降は勝手方と公事方に分かれて職務を分掌していました。

三奉行とは何ですか

寺社奉行・町奉行・勘定奉行の3つです。
寛永12年(1635年)以降、この三奉行を主たる構成員とする寄合が置かれ、後に「評定所一座」と称されました。

外国奉行と軍艦奉行はいつできたのですか

外国奉行は1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結後に海防掛が廃止されたのに代わって設置されました。
軍艦奉行は安政6年(1859年)の設置です。どちらも開国に対応するために作られた役職です。

小栗忠順はどの奉行を務めましたか

勘定奉行・外国奉行・軍艦奉行のすべてを務めています。
勘定奉行は4度就任し、ほかに南町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、海軍奉行並なども務めました。


幕末の流れ全体を確認したい場合は、年表のページがあります。

→ 幕末とは|年表と流れをわかりやすく解説

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

情報の誤りを報告