大政奉還(たいせいほうかん)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が京都の二条城で政権の返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇がこれを勅許した出来事です。
「これで幕府が終わった」と説明されがちですが、そうではありません。
この日、慶喜はまだ将軍職を辞めていませんし、幕府も廃止されていません。
まず、そこから整理します。
なぜ行われたのか
理由は、ひとことで言えば「討幕の名目を奪うため」です。
背景1|幕府の正統性が揺らいでいた
江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的な統治者でしたが、その根拠は「天皇が国家統治を将軍に委任している」という大政委任論にありました。
幕末になると朝廷が自立した政治勢力として浮上し、開国・通商条約をめぐって幕府と対立します。
安政5年(1858年)には、幕府を通さずに水戸藩へ直接戊午の密勅が下されました。
危機感を持った幕府は、文久3年(1863年)3月と元治元年(1864年)4月に大政委任の再確認を取り付け、それまで慣例にすぎなかった委任を制度化します。
その「委任されていた大政」を返上したのが、大政奉還でした。
背景2|薩摩と長州が武力倒幕に傾いていた
薩摩藩は、雄藩の政治参加をともなう公武合体を構想していましたが、参預会議(1864年)の崩壊と四侯会議(1867年)の無力化により、慶喜を前提とした路線を断念します。
慶応3年5月21日、土佐藩士の乾退助(板垣退助)・谷干城らが、中岡慎太郎の仲介で薩摩藩家老・小松帯刀の京都の寓居において、西郷隆盛・吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結びました。
背景3|土佐藩が対抗案として持ち込んだ
これに対抗して大政奉還論を推したのが、土佐藩参政の後藤象二郎です。
なお、坂本龍馬が6月9日に『船中八策』を後藤に示したとされることがありますが、これは後世の創作とも言われています。
有名な話ですが、断定できる史料はありません。
大政奉還論そのものは、それ以前から横井小楠、大久保一翁、勝海舟といった開明的な人々が唱えていました。
狙いは「内戦の回避」だった
大政奉還の目的は、内戦を避けながら幕府の独裁体制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯の合議体制(公議政体)を作ることにありました。
政権を返してしまえば、薩長は「幕府を討つ」という名目を失います。
そのうえで新政府を作れば、依然として公家衆や諸藩を圧倒する徳川家が、実質的に政権を握り続けられる——幕府はそう考えていたといわれます。
何が起きたのか|日付で追う
以下の日付はすべて旧暦です。
| 日付(慶応3年) | 出来事 |
|---|---|
| 10月3日 | 山内容堂が大政奉還建白書を、老中・板倉勝静を通じて慶喜へ提出 |
| 10月11日〜 | 京都にいた10万石以上の大名の重臣へ、13日正午に二条城へ出仕するよう回状が回る |
| 10月12日 | 幕府役人・会津藩・桑名藩などへ方針を伝達。夜半、備中松山にいた山田方谷が密書を受け取り、上表文の草案を密使に託す |
| 10月13日 | 40藩の重臣50名ほどが二条城二の丸大広間に集合。上表文を含む書付3通が渡され、6名が慶喜に拝謁 |
| 10月14日 | 高家・大沢基寿を使者として、大政奉還上表を朝廷へ提出 |
| 10月15日 | 朝議で受理を決定。慶喜に沙汰書が授けられる。朝廷は10万石以上の諸大名に上洛を命じる |
| 10月22日 | 諸侯会同召集までという条件付きで、緊急政務の処理が引き続き幕府に委任される |
| 10月24日 | 慶喜が征夷大将軍の辞職を申し出る |
| 12月9日 | 王政復古の大号令。ここで幕府が廃止される |
13日に慶喜へ拝謁したのは、土佐藩の後藤象二郎と福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の辻維岳、宇和島藩の都築温、備前藩の牧野権六郎の6名でした。
上表文では、文案で「我」となっていた部分を「臣慶喜」と改め、「十月十四日 慶喜」で結ぶ形にしています。
上表の中身を要約すると、外国との交際が日々盛んになるなか、朝廷に権力を一つにしなければ国の根本が成り立たないので、旧習を改めて政権を返上し、広く天下の公議を尽くしたい——というものでした。
誤解されやすい3つのこと
1. 大政奉還の時点で、慶喜は将軍を辞めていない
これがいちばん誤解されます。
慶喜が征夷大将軍の辞職願を出したのは10月24日(1867年11月19日)です。
しかも、諸藩への軍事指揮権を持つ将軍職は引き続き認められ、当分は従来どおりとされました。
幕府が廃止されるのは12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令です。
大政奉還と王政復古のあいだには、2か月近い間があります。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
岩倉具視
政権を返したのなら、その日で幕府は終いではないのか。
徳川慶喜
返したのは、朝廷から委ねられていた大政だ。将軍の職はそのままで、辞職を願い出たのは十日あとの二十四日。諸藩への軍事の指揮も当分は従来どおりとされた。幕府が消えたのは十二月九日、王政復古の大号令によってだ。
2. 政権を返したのに、幕府が政治を続けていた
10月22日には、諸侯会同が召集されるまでという条件付きで、緊急の政務処理が引き続き幕府に委任されました。
外交にいたっては、朝廷にまったく為す術がありません。
10月23日、朝廷は外交については引き続き幕府が中心となって行うと通知しています。
実際、11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告も、11月28日のロシアとの改税約書締結も、行ったのは幕府でした。
3. 有名な「大政奉還図」は、あの日の絵ではない
邨田丹陵の『大政奉還図』(1935年、聖徳記念絵画館蔵)は、10月13日に大広間で慶喜が各藩の重臣へ布告している場面と見られがちですが、描かれているのは前日10月12日、慶喜が黒書院で幕府役人や家門大名に伝達した場面です。
二条城の大広間には松の障壁画が描かれており、絵にあるような桜が描かれているのは黒書院のほうだ、というのが根拠です。
同じ日に、討幕の密勅が出ていた
大政奉還上表と同じ10月14日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩へ討幕の密勅がひそかに渡されています。
ただしこの密勅には天皇による日付や裁可の記入がなく、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いとされます。
予想外の大政奉還に倒幕派は混乱しました。
小松帯刀や吉井友実、岩倉具視のように、大政奉還を行った慶喜を評価する者もいたほどです。
薩摩藩はしばらく様子見に転じ、10月21日の朝廷からの諮問では、幕府への政務委任に賛成しています。
徳川慶喜
余が上表を出したその日に、討幕の密勅が薩長へ渡っていたと聞いた。
岩倉具視
同じ十月十四日じゃ。もっともあの書付には天皇の日付も裁可の記入もなく、詔書の形を成しておらぬ。討幕派が仕立てた偽勅ではないかと見られておる。政権を返されるとは思うておらなんだゆえ、こちらの側も一度は足が止まったのじゃ。
それでも大久保利通・西郷隆盛ら武力倒幕派は警戒を解かず、11月29日には藩主・島津茂久が兵を率いて上洛、12月9日の王政復古へ向かっていきました。
小栗忠順から見た大政奉還
大政奉還のあと、慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争が始まります。
慶喜が江戸へ戻ったあと、1月12日から江戸城で開かれた評定で、勘定奉行だった小栗忠順は榎本武揚・大鳥圭介・水野忠徳らとともに徹底抗戦を主張しました。
小栗が提案したのは、次のような挟撃策です。
- 薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃する
- 同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾へ突入させ、艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させる
- 補給を絶たれて孤立した薩長軍を殲滅する
後にこの作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れた、という逸話が伝わっています。
しかし慶喜はこれを退け、勝海舟の恭順論を採りました。
そして1月15日、小栗は御役御免を申し渡されます。
慶喜が小栗案を却下した理由については、当時の慶喜が「武備恭順」の姿勢であり、家臣団が小栗の意見に引きずられて恭順の域から逸脱するのを防ぐためだった、と推測されています。
なお当時、幕臣のほとんどは主戦論でしたが、作戦案は議論百出の状態で一本化できていませんでした。
よくある質問
大政奉還とは何ですか
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍・徳川慶喜が二条城で政権の返上を明治天皇に奏上し、翌15日に勅許された出来事です。
大政奉還はなぜ行われたのですか
武力で幕府を倒そうとする薩長から討幕の名目を奪い、内戦を避けながら、徳川宗家を中心とする諸侯の合議体制に移行するためです。
大政奉還で幕府は終わったのですか
終わっていません。
慶喜が将軍職の辞職を申し出たのは10月24日で、幕府が廃止されたのは12月9日の王政復古の大号令によってです。
その間、緊急政務や外交は引き続き幕府が担当していました。
大政奉還を提案したのは誰ですか
土佐藩の後藤象二郎が推進し、10月3日に山内容堂が建白書を提出しました。
大政奉還論そのものは、横井小楠・大久保一翁・勝海舟らが以前から唱えていたものです。
坂本龍馬の船中八策が元になったのですか
そう語られることが多いのですが、船中八策は後世の創作とも言われています。
断定できる史料はありません。
大政奉還は何年何月何日ですか
旧暦では慶応3年10月14日、新暦では1867年11月9日です。
勅許は翌10月15日(1867年11月10日)でした。
幕末の流れ全体は、こちらにまとめています。
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