咸臨丸(かんりんまる)は、幕府が初めて太平洋を往復させた軍艦です。
勝海舟と福澤諭吉が乗っていたことで知られています。

ただ、ここには広く行き渡った誤解があります。

使節団77人が乗ったのは、咸臨丸ではありません。
アメリカ軍艦ポーハタン号です。咸臨丸はその随伴艦でした。
そして小栗忠順は、ポーハタン号のほうに乗っていました。

このページでは、2隻の航海を日程順に並べ、小栗が何をしにアメリカへ行ったのかまで整理します。

万延元年遣米使節とは

万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、日米修好通商条約の批准書を交換するために幕府が派遣した77名の使節団です。
1854年の開国後、最初の公式訪問団でした。

役 人物 備考
正使 新見正興 外国奉行・神奈川奉行を兼帯。禄高2,000石
副使 村垣範正 外国奉行としては新見より先任だが、禄高500石
目付(監察) 小栗忠順 表向きは監察。非公式に通貨交換比率の交渉を担った

正使と副使が入れ替わったのは禄高の差によるものです。
外国奉行としての先任は村垣でしたが、2,000石の新見が正使になりました。

なお、そもそもアメリカでの批准書交換を提案したのは、条約交渉にあたった岩瀬忠震でした。
その岩瀬は安政の大獄で左遷・蟄居となり、使節に加われていません。

使節団は、記録係の玉虫左太夫が『航米日録』を残しています。
賄方として随行した加藤素毛が語った話も『二夜語』として残りました。

咸臨丸はなぜ派遣されたのか

咸臨丸の派遣理由は、ポーハタン号が事故に遭った場合の備えでした。
軍艦奉行・水野忠徳の建議によるもので、安政6年(1859年)11月24日に別船の派遣が決まっています。

ところが、この決定はすんなり進みませんでした。

段階 派遣艦
当初 朝陽丸
次いで 観光丸
最終的に 咸臨丸

二転三転した結果、乗員の不満を招き、咸臨丸の整備も不十分なものになりました。
さらに、遣米副使の任も与えられた木村喜毅(芥舟)以外は乗り組み士官の役職が決められておらず、指揮系統も混乱しています。

対外的には、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)が「勝が艦長、木村が提督」と説明して押し通しました。

咸臨丸のスペック

項目 内容
建造 オランダ・キンデルダイクのホップ・スミット造船所。1855年(安政2年)7月起工、1857年3月完成
旧名 Japan(ヤパン号)
船名の由来 『易経』の「咸臨」。君臣が互いに親しみ合うことを意味する
種別 木造・バーク式3本マストの蒸気コルベット
排水量 625英トン
全長 48.80m
出力 100馬力(公称馬力と推定)
速力 6ノット
兵装 砲12門
乗員 太平洋横断時96名
買価 100,000ドル

外輪船の観光丸に続いて、日本が2番目に保有した西洋式軍艦です。
日本の軍艦では初めてスクリューを備えましたが、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造でした。

2隻の日程を並べる

咸臨丸のほうが数日早く日本を出ています。

日付(旧暦/西暦) 咸臨丸 ポーハタン号(使節団)
1月13日 品川を出港
1月18日/2月9日 浦賀でブルック大尉ら11名が乗艦 品川沖で乗船
1月19日 浦賀を出港
1月22日/2月13日 横浜を出港
2月13日/3月4日 石炭補給のためホノルルへ寄港
2月26日/3月17日 サンフランシスコ入港 ホノルルを出港
3月8日/3月28日 サンフランシスコ到着

咸臨丸のサンフランシスコ入港日は、資料により2月26日(3月17日)と2月27日(3月18日)で1日ずれます。
ここでは咸臨丸側の記録に沿って26日としました。

日本の軍艦がアメリカに入港したのは建国以来初めてで、岸壁には見物人が押し寄せ、新聞にも大きく報道されています。

ハワイ滞在中、使節一行はハワイ王国のカメハメハ4世に拝謁しました。
なお、ホノルル到着の2日前に日付変更線を通過していますが、一行の多くは日付の調整をしていないため、日記の日付と実際の日付が合っていません。

往路の実態|日本人だけでは渡れなかった

咸臨丸の航海は、長く「日本人が自力で太平洋を渡った」と語られてきました。
実際は違います。

浦賀で、難破したアメリカ海軍測量船フェニモア・クーパーの船長ジョン・ブルック大尉と、その指揮下11名が乗り込んでいます。
これは木村が「日本人乗組員の航海技術では太平洋横断に不安あり」と考え、反対する日本人乗組員を説得して幕府に要請したものでした。

浦賀を出た直後から荒天になり、船は各所を破損。
日本人は役に立たなくなり、艦は実質的にアメリカ人によって運用されました。
当直体制にも不備がありました。

研究者の金澤裕之は「少なくとも往路では、日本人単独での航海は困難だったと言わざるを得ない」と書いています。

この実態が明らかになったのは、1960年です。
ブルックが遺言で死後50年間の日記公開を禁じていたためでした。
つまり100年ちかく、日本側の記録だけで語られていたことになります。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

ジョン万次郎

ジョン万次郎

往路も日本人だけで渡った、と長く語られてきました。

小野友五郎

小野友五郎

ブルック大尉の日記が、死後五十年は公にするなという遺言で伏せられていたのです。表に出たのは一九六〇年。それまでは日本側の記録だけで語られていました。

復路は日本人だけで45日

サンフランシスコに着いた時点で咸臨丸の任務は終わりましたが、損傷がひどく修理が必要でした。
この滞在中、乗員は現地の人々と交流しています。

  • 福澤諭吉は写真館へ出かけ、アメリカ人の少女と一緒に写真に写った
  • 福澤と中浜万次郎は、ウェブスターの英中辞典を買い求めた。英和辞典を作るためだった

咸臨丸は、ワシントンへ向かう正使一行と別れ、旧暦閏3月19日にサンフランシスコを出発。ホノルルを経て旧暦5月5日に浦賀へ帰還しました。

復路は、往路で同乗したアメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人だけの運用です。
往路の反省と、アメリカ滞在中に得た知見をもとに当直などの体制を整えました。

項目 数字
復路 45日間・6,146海里
往復合計 83日間・10,775海里

ただし復路はおおむね好天に恵まれ、整えた体制の練度を確かめる機会はありませんでした。
出入港時をのぞいて機関はほとんど使われていません。

この成功は幕府海軍に大きな自信を与えましたが、往路でのアメリカ人乗員の助力は過小評価されました。
航海・運用の技量不足という問題が見過ごされたことは、のちに旧幕府艦隊が海難で主力を失う遠因になったと指摘されています。

ジョン万次郎

ジョン万次郎

帰りは四十五日、こちらの手で戻りましたね。

小野友五郎

小野友五郎

おおむね天気に恵まれた四十五日でした。整え直した当直の体制を試すような荒天が来なかったのです。あの成功で自信だけが残り、腕の足りなさのほうは見過ごされました。

小栗忠順のもう一つの任務|通貨交渉

ポーハタン号に乗った使節団は、サンフランシスコからパナマへ渡り、パナマ地峡鉄道で大西洋側へ抜け、ロアノーク号に乗り換えてワシントンへ向かいました。

日付(旧暦/西暦) 出来事
3月17日/4月7日 サンフランシスコを出港
閏3月4日/4月24日 パナマ到着。地峡鉄道で3時間かけて横断
閏3月25日/5月15日 ワシントン到着。ウィラード・ホテルに滞在
閏3月27日/5月17日 ブキャナン大統領に謁見し、批准書を渡す
4月2日/5月22日 批准書を交換。最大の任務が完了

批准交換証書は、現在も重要文化財として外務省に保管されています。

そして、ここからが小栗の仕事でした。

なぜ日本が3倍損をしていたのか

日米和親条約の時点では、1ドル=一分銀1枚の交換比率でした。
ところが日米修好通商条約では、ハリスの主張で「同種同量交換の原則」——同じ種類の貨幣を同じ重さで交換する——が盛り込まれます。

一分銀は、幕府の極印を打つことで実際の重さの3倍の価値を持たせた名目貨幣でした。
重さを基準にされると、その3倍分がまるごと消えます。
結果、1ドル=一分銀3枚となり、日本の貨幣価値は1/3になりました。

この差は、両替を繰り返すだけで利益になります。

1ドル(メキシコ銀貨)→ 3分(一分銀)→ 0.75両(天保小判)→ 3ドル(20ドル金貨)

外国奉行・水野忠徳は、同種同量で交換できる貿易用の貨幣として二朱銀を発行しましたが、ハリスやオールコックら外国公使団に認められず、わずか22日で通用停止になりました。

この構造によって小判が海外へ流出したとされていますが、流出した量については研究者のあいだで見方の幅が大きく、ここでは規模を断定しません。

小栗がワシントンで主張したこと

小栗は批准書交換のあと、カス国務長官に申し出て、約半月にわたってアメリカ政府と交渉しました。

主張の柱は次のとおりです。

  1. 一分銀は「楮幣」(紙幣のような通貨)であり、重さで交換できるものではない
  2. 同種同量で交換できるよう発行した二朱銀を、ハリスが認めていない
  3. 結果として日本が3倍損をする状況になっている
  4. だから洋銀と一分銀の交換は禁止し、90セント=1分として一分金と交換すべきである

根拠として、小栗は天保小判・一分銀・一分金・二朱銀をフィラデルフィアの造幣局へ送り、分析させています。

貨幣 分析結果
一分銀 35.6セント相当
一分金 89セント相当

同じ「一分」なのに、2.5倍の開きがありました。

アメリカ側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至りませんでした。
その後フィラデルフィア造幣局での分析実験を経て、1両=3ドル60セントの為替レートが決まります。

当時のアメリカの新聞は、日本人が10進法の天秤ばかりや算盤で素早く計算したことを報じ、小栗はタフ・ネゴシエイターとして評価を上げたと言われます。
ただし通貨問題の実質的な決着は、ワシントンでの交渉で既についていました。

万延小判と万延二分金|小栗の留守中に決まったこと

小栗がワシントンで交渉している最中、幕府は日本で答えを出していました。

万延元年1月20日(1860年2月11日)に触書が出され、2月1日(2月22日)から、既存の小判は含有金量に応じて割り増しで通用させることになります。

旧貨幣 新しい通用額
天保小判 1枚 三両一分二朱
安政小判 1枚 二両二分三朱

同時に発行されたのが万延小判です。
天保小判に対して品位(金の純度)はそのままに、量目(重さ)を3割以下まで落としました。
含有金量は慶長小判の約8.1分の1です。

金銀比価を国際水準に合わせるための措置でしたが、江戸では3倍の額面で交換される旧貨幣を持つ人が両替商へ殺到し、大混乱になりました。

そして、実際に幕末の通貨を動かしたのは小判ではありませんでした。

万延小判は鋳造量が少なく、流通の主導権を握ったのは万延二分金(万延二分判)です。
一両あたりの含有金量がさらに低く、そのぶん鋳造量が圧倒的に多かったためです。

一両あたりの含有金量は、慶長小判の約11.4分の1まで落ちました。

流通する小判が少なくなった結果、幕末の商品価格は小判ではなく、手元にある二分判・二朱判で表示する「有合建(ありあいだて)」で示されるようになります。

物価は乱高下しながら激しく上昇しました。
小栗が渡米中に主張していた「一分金との交換」が通っていれば違う道もあり得ましたが、実際に起きたのは貨幣の中身を薄めることによる決着でした。

金はどれだけ流出したのか

「幕末に大量の金が流出した」という説明はよく見かけますが、その量は今も確定していません。

日本銀行の広報誌に寄せられた武田晴人氏の整理(2009年)によれば、開港からの半年で流出した額は10万両とも50万両ともいわれ、幅が大きいままです。
同氏は、この流出に関連した国内経済への影響は1861年には沈静化したとみられることから、「金貨流出の影響は一時的なものにとどまった」としています。

さらに鎮目雅人氏は2016年の論考で、かつては大量流出という捉え方が主流だったとしたうえで、「最近の研究では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力」と述べています。

一方、当時のイギリス総領事オールコックは著書『大君の都』で、天保小判が金貨4ドル分の金を含み、一分銀には素材価値以上の価値が設定されていたことが金貨流出につながったと認めています。
ただし、それは大量の流出が起きたあとのことでした。

小栗がワシントンで指摘していたのは、まさにこの構造そのものです。
流出の規模については研究の見方が割れている、というのが現在の状況で、このサイトでも量は断定しません。

ニューヨークの50万人と、グレート・イースタン

ワシントンには25日間滞在し、スミソニアン博物館・国会議事堂・ワシントン海軍工廠・海軍天文台などを訪れています。
帰国前には再び大統領に謁見し、国務省で使節3人には金メダル、随員には銀メダル、従者には銅メダルが贈られました。

都市 日付(旧暦/西暦) 出来事
フィラデルフィア 4月20日/6月9日 造幣局を見学。チェスクラブで将棋を披露。6日間滞在
ニューヨーク 4月27日/6月16日 ブロードウェイのパレードに50万人。13日間滞在

当時のニューヨーク・タイムズは、この歓迎を市の歴史でも指折りの華々しい出来事だと評しています。

ニューヨークを出発するとき、港には当時世界最大の客船グレート・イースタンが停泊していました。
満載排水量32,160トン、全長211m。排水量でポーハタン号の10倍です。
一行はこれを軍艦と勘違いし、日本と列強の技術差を強く意識させられました。

余談ですが、無給通詞見習として同行していた当時16歳の立石斧次郎は、航海中の会話で英語力を劇的に高め、滞在中は使節のスポークスマンを務めるようになります。
将校たちがつけた愛称「トミー」で10代の女性を中心に人気を集め、「トミーのポルカ」という曲まで作られました。

帰路は世界一周でした。
ナイアガラ号で北大西洋を横断し、カーボベルデ、アンゴラのルアンダを経由。旧暦7月11日(8月27日)に喜望峰を回ってインド洋に入り、バタヴィア、香港を経て、旧暦9月27日(11月9日)に品川沖へ帰着しています。

小栗が持ち帰ったネジ

小栗はワシントン海軍工廠を見学したとき、日本との製鉄・金属加工技術の差に驚き、記念にネジを持ち帰りました。

このネジが、のちの横須賀製鉄所につながっていきます。
帰国後、小栗は遣米使節の功で200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任しました。

造船所の話は横須賀製鉄所(横須賀造船所)|小栗忠順が残したものにまとめています。

よくある質問

咸臨丸には誰が乗っていたのですか

軍艦奉行の木村喜毅(芥舟)が司令官、勝海舟が艦長格として乗り組みました。
通訳は中浜万次郎(ジョン万次郎)、福澤諭吉は木村の従者として乗船しています。
太平洋横断時の乗員は96名。うち11名はアメリカ人でした。

小栗忠順は咸臨丸に乗っていたのですか

乗っていません。
小栗が乗ったのは、使節団本隊のアメリカ軍艦ポーハタン号です。
咸臨丸はその随伴艦で、サンフランシスコで別れています。

咸臨丸は本当に日本人だけで太平洋を渡ったのですか

往路は違います。
荒天で日本人乗組員が動けなくなり、実質的にアメリカ人が運用しました。
日本人だけで渡ったのは復路です。ただし復路も、アメリカ人水夫5名を雇っています。

遣米使節団は何人でしたか

77名です。
正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順の3人を正規の代表としていました。

咸臨丸はその後どうなったのですか

戊辰戦争で新政府軍に敗れ、明治政府に接収されました。
明治4年(1871年)9月、北海道へ移住する旧仙台藩片倉家の旧家臣400名余を函館から小樽へ運ぶ途中に泉沢沖で座礁し、翌日沈没しています。

万延元年遣米使節はどのくらいの期間だったのですか

安政7年1月に日本を出て、旧暦9月27日(1860年11月9日)に品川沖へ帰着しました。
往路は太平洋、復路は大西洋・喜望峰・インド洋を回る世界一周でした。


幕末の全体像は年表のページに、小栗を扱った本は書籍のページにまとめています。

→ 幕末とは|年表でわかる開国から明治維新までの15年

→ 小栗忠順を知るための本|小説・新書・漫画のおすすめ

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