徳川埋蔵金は、明治23年(1890年)ごろから130年以上も探され続けて、まだ見つかっていません。
重機も、レーダー探査も、3D地底探査機も投入されました。
それでも出ません。
徳川埋蔵金はなぜ見つからないのか。
理由は3つに整理できます。
そして、そのうち最初のひとつが、おそらく答えです。
まず、どれだけ探されてきたのか
理由の前に、探索の規模を押さえておきます。
| 時期 | 誰が | 何をしたか |
|---|---|---|
| 明治期〜 | 赤城山麓の水野家 | 3代100年以上にわたって探し続けた |
| 1890年・1891年 | 同上 | 源次郎の古井戸から黄金像・燈明皿が出たとされる |
| 1963年 | 2代目義治ら | 石灰の鶴を発見したとされる |
| 1990年6月〜 | TBS『ギミア・ぶれいく』/糸井重里さんら | 源次郎の井戸跡を大型重機で掘削 |
| 1999年12月31日〜 | TBS『超える!テレビ』 | 長井小川田など3か所を年またぎ生中継で発掘 |
| 2008年 | TBS『バラエティーニュース キミハ・ブレイク』 | 発掘企画 |
| 2016年12月・2017年5月 | TBS『林修の歴史ミステリー』 | 赤城山中で再度の発掘調査 |
1990年の発掘では、掘った穴が直径100メートル・深さ60メートルに達しました。
出てきたのは、江戸時代以降に掘られたとみられる穴、迷路のような坑道、積まれた石垣、多数の遺物。
埋蔵金だけが出ませんでした。
理由1|そもそも存在しなかった可能性が高い
もっとも単純で、もっとも有力な説明です。
これは「埋蔵金架空説(埋蔵金非実在説)」と呼ばれ、複数の根拠があります。
幕末の幕府は、隠せるほどの金を持っていなかった
江戸幕府は初代将軍以来、城や寺社の普請、江戸の大火の復興で支出が続きました。
5代将軍綱吉の頃には既に財源が枯渇し、不足分は蓄えを切り崩して賄い、それもやがて使い切っています。
象徴的なのが江戸城の天守閣です。
慶長・元和・寛永と将軍の代替わりごとに3度建て直された天守は、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失したあと、ついに再建されませんでした。
幕府の象徴を建て直す資金すら、4代将軍の時点で尽きていたということです。
その後、新井白石の正徳の治、吉宗の享保の改革、田沼意次の改革と財政再建は何度も試みられましたが、状況は悪化の一途をたどり、幕末には大地震と飢饉が重なって困窮の極みにありました。
小栗忠順は「貯める側」ではなく「使う側」だった
これが決定的です。
埋蔵を画策したとされる小栗忠順は、史実では造船所などの建設を主導し、巨額の資金を投入していた責任者でした。
小栗は横須賀製鉄所の建設資金をフランス人技師レオンス・ヴェルニーに委ねています。
ヴェルニーは横須賀製鉄所、観音崎灯台、走水水源地などを整備したあと、余った金を明治政府に返還しました。
将来の再興のために金を隠す人物と、いま目の前の近代化に金を注ぎ込む人物。
この2つは同じ行動として成立しません。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
三野村利左衛門
金を隠しておく方と、目の前の普請へ注ぎ込む方と。同じお方が両方はできませんな。
小栗忠順
わしは製鉄所の金をヴェルニーに預けた。あの男は工事を終えたあと、余った分を新政府へ返している。隠す気があるなら、他人に預けて返させはせん。
使わない理由がない
仮に巨額の資金があったなら、幕府存続の危機に軍備へ回すのが自然です。
実際、開国後の幕府は大量の武器・軍艦を購入しています。
維新を越えて残ったと仮定しても同じです。
静岡藩へ移った徳川宗家は、旧幕臣の生活を守り、牧之原台地を開墾するために資金を必要としていました。
手元にあるなら、使っていたはずです。
開城の混乱で消えた可能性
江戸城では何千人もが働いていました。
開城の混乱に紛れて1人が200〜300両ずつ持ち出したとすれば、400万両はすぐになくなります。
理由2|探す範囲が広すぎる
仮に存在したとしても、探せる広さではありません。
もっとも有名な赤城山は、単体の峰ではなく山域の総称です。
前橋市・桐生市・渋川市・沼田市・利根郡昭和村にまたがり、裾野の径は約25km。
これは約35kmの富士山に次いで日本で2番目の規模です。
しかも赤城山のなかだけで、津久田原・長井小川田・芳ヶ沢・双永寺・年丸橋と説が分かれています。
さらに悪いことに、発掘が失敗を重ねるうち「赤城山は本当の場所を隠すための囮だ」と考える人が現れました。
そこから候補地は日光、男体山、中禅寺湖、榛名山、妙義山、足尾銅山の坑道、各地の東照宮、群馬県昭和村、果ては上海まで広がります。
探索範囲は、探せば探すほど広がっていきました。
理由3|手がかりが伝承で、一次史料に届いていない
3つ目は、探し方そのものの問題です。
赤城山の埋蔵金は、後になって次のように「定義」されました。
- 大老井伊直弼が莫大な金を赤城山麓へ埋めることを企画した
- 井伊の暗殺後、軍学者の林靏梁によって埋蔵が実施された
- 額はおよそ360万〜400万両
- 埋蔵には中国の兵法「八門遁甲」が用いられ、各所に偽計が張り巡らされている
- 山中の双永寺は見張り所だった
- 小栗忠順は機を見て掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた
物語としてよくできていますが、これらを裏づける一次史料は示されていません。
金額の「360万両」にしてもそうです。
根拠とされるのは勝海舟の日記にある「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない」という記述で、これは埋蔵された額ではなく、用途が決まっていた軍用金の額でした。
物証とされるものも、黄金像・銅板・石灰の亀と鶴など、いずれも「〜とされる」がついて回ります。
つまり探索は、史料の指す地点ではなく、伝承の指す地点を掘っているわけです。
「八門遁甲で偽計が張り巡らされている」という設定は、掘って外れても伝説が傷つかない構造になっており、これも探索が終わらない理由のひとつになっています。
三野村利左衛門
八門遁甲で偽計が張り巡らされている、という尾ひれが付いておりますな。
小栗忠順
掘って出なかったときに、伝説のほうが傷まぬ仕掛けだ。偽計に掛かっただけだ、で片が付く。だから百三十年たっても終わらんのだよ。
「なぜ埋めたのか」「なぜ掘らないのか」
一緒に検索される疑問にも触れておきます。
なぜ埋めたとされるのか — 明治新政府に渡さず、幕府再興の軍資金にするため、というのが伝説の説明です。ただし前述のとおり、その金の存在自体が確認されていません。
なぜ今は掘らないのか — 大規模な発掘は、確認できる範囲では2017年5月のTBS番組が最後です。土地には所有者がおり、仮に見つかっても文化財保護法により発見者は文化庁長官へ報告する義務を負い、許可なく触ることもできません。掘る側の取り分も限られます。
よくある質問
徳川埋蔵金がなぜ見つからないのか、ひとことで言うと
最初から存在しなかった可能性が高いためです。
加えて、探索範囲が5市町村にまたがる広さであること、手がかりが一次史料ではなく伝承であることが重なっています。
徳川埋蔵金は嘘なのですか
「嘘」と言い切れる史料も、「ある」と言い切れる史料もありません。
確かなのは、130年以上探されて見つかっていないこと、そして幕末の幕府の財政状況からは存在しにくいことです。
本当にあるのですか
あるとする根拠は、いずれも伝承と「〜とされる」物証です。
無いとする根拠のほうが、幕府の財政記録や小栗忠順の行動といった史実に基づいています。
もう無くなったという説はありますか
あります。
江戸城開城の混乱で持ち出された、静岡へ移った徳川宗家が使った、といった説明です。
また、御用金400万両が蒸気船「早丸」に隠され、久里浜沖の海獺島付近で沈没したという伝説もあります。
最新の探索はいつですか
2017年5月6日放送のTBS『林修の歴史ミステリー』が、確認できる範囲でもっとも新しい大規模発掘です。
伝説の全体像は、こちらにまとめました。
群馬県には、この伝説にちなんだ土産物も売られています。