徳川埋蔵金の在り処として、いちばん有名なのが赤城山(群馬県)です。
ただし「赤城山に埋まっている」という言い方には、最初から大きな落とし穴があります。
赤城山という単体の峰は存在しないからです。
まず、赤城山とはどれだけ広いのか
赤城山は、群馬県北東部に位置する山域の総称です。
カルデラ湖をともなう成層火山で、名称として「赤城山」と呼ぶ単体の峰はなく、複数の山頂を持つ連山をまとめてこう呼びます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 最高峰 | 黒檜(くろび)山 1,827.6m |
| おもな峰 | 駒ヶ岳、地蔵岳、鈴ヶ岳など標高1,200〜1,800m級 |
| 所在地 | 前橋市・桐生市・渋川市・沼田市・利根郡昭和村 |
| 中央部 | カルデラ湖の大沼、湿原の覚満淵、火口湖の小沼 |
| 裾野の径 | 約25km(約35kmの富士山に次いで日本で2番目) |
榛名山・妙義山とあわせて上毛三山と呼ばれ、日本百名山にも選ばれています。
つまり「赤城山に埋蔵金がある」という情報は、5つの市町村にまたがる直径25kmの山体のどこか、という意味しか持ちません。
最初の一歩からこれです。
※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。
小栗鉞子
赤城山のどこか、と言われれば、地図で探せそうな気がいたします。
小栗忠順
そこが落とし穴だ。赤城山という名の峰は無い。黒檜山や地蔵岳をまとめて呼ぶ山域の名で、裾野の差し渡しだけで二十五キロ、五つの市町村にまたがる。どこか、と言われても、地図の一点を指したことにはならんのだよ。
埋まっているとされる場所
その広い山域のなかでも、説はさらに分かれています。
- 津久田原
- 長井小川田
- 芳ヶ沢
- 双永寺(埋蔵時の見張り所とされた寺)
- 年丸橋(小川田橋)
このうち長井小川田は、水戸徳川に伝わる埋蔵金関係の古文書に「小川田原」という地名が記されていたことから、1999年の発掘で有力視された場所です。
利根川の支流の川べりにあり、船で御用金を運んだと仮定すれば地理的に都合がよい、という理屈でした。
このほか、赤城山の所在地のひとつである群馬県昭和村の長者久保も候補に挙げられています。
赤城山以外の説も生まれた
赤城山での発掘が失敗を重ねるうち、「赤城山は本当の場所を隠すための囮だ」と考える人が現れました。
そこから各地に伝説が派生します。
日光山内、男体山、中禅寺湖、明智平、榛名山、妙義山、足尾銅山の坑道(備前楯山)、上野・久能山・日吉・世良田などの各地の東照宮、そして上海——。
赤城山説そのものが揺らいでいる、ということでもあります。
小栗上野介と赤城山の距離
「小栗上野介 赤城山」「小栗忠順 赤城山」でよく検索されますが、ここは正確に押さえておくべきところです。
伝説の発端は、幕府の勘定奉行だった小栗忠順が、罷免後に上野国群馬郡権田村へ隠遁したことでした。
「小栗が幕府の金を持って逃げた」という流言が飛び、さらに「利根川を遡ってきた船から、誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れます。
ただし、権田村は現在の群馬県高崎市倉渕町権田です。
一方、赤城山の所在地は前橋市・桐生市・渋川市・沼田市・昭和村で、高崎市は含まれていません。
小栗の隠棲先と赤城山は、同じ群馬県内ではあっても別の場所です。
「小栗が住んでいた山」ではないという点は、伝説を読むときに押さえておくと混乱しません。
小栗鉞子
父上がお住まいだった村は、赤城山の中ではないのですか。
小栗忠順
権田村は今の高崎市倉渕町だ。赤城山と呼ばれる山域は前橋、桐生、渋川、沼田、昭和村で、高崎は入っておらん。同じ群馬でも別の場所だ。住んでいた山に埋めた、という筋書きは、そもそも土地が違う。
発掘の歴史
赤城山での発掘は、明治のうちに始まっています。
明治期|水野家の3代100年
赤城山麓では水野家が3代100年以上にわたって埋蔵金を探し続けていました。
のちにテレビが掘ることになる源次郎の井戸は、この水野家の敷地内にあります。
この時期に「出た」とされるものが、伝説の物証として語り継がれています。
| 出たとされるもの | 時期・場所 |
|---|---|
| 東照権現(徳川家康)の黄金像 | 明治23年(1890年)源次郎の古井戸 |
| 銅製の燈明皿 | 明治23年 源次郎の古井戸 |
| 大義兵法秘図書 | 明治24年(1891年)児玉惣兵衛宏則が書き残したとされる |
| 意味不明な文字や絵図が刻まれた銅板3枚 | 双永寺の床下 |
| 直径20メートルの巨大な石灰の亀 | 2代目義治が山中で発掘したとされる |
| 亀と同じ大きさの石灰の鶴 | 昭和38年(1963年)亀の近く |
| 萬四目上覚之帳 | 源次郎が保管していたとされる |
いずれも「〜とされる」がつきます。
これらが徳川幕府の埋蔵と結びつくことを示した一次史料は確認されていません。
1990年〜|テレビが重機で掘った
1990年6月、TBS『ギミア・ぶれいく』で糸井重里さんを中心としたプロジェクトチームが結成されました。
源次郎の井戸跡を狙い、大型重機を投入した掘削が行われます。
出てきたのは、江戸時代以降に掘られたとみられる穴、迷路のような坑道、そして何かを隠すために積まれたとしか考えられない石垣でした。
埋蔵金そのものは出ていません。
1999年の大晦日には長井小川田を含む3か所で再挑戦、2016年・2017年にも『林修の歴史ミステリー』で発掘が行われました。
結果は同じです。
現在の赤城山
2017年5月のTBS番組以降、赤城山で大規模な発掘が行われたという記録は確認できていません。
埋蔵金も、当然ながら見つかっていません。
現在の赤城山は、埋蔵金と関係なく訪れる人のほうが圧倒的に多い観光地です。
カルデラ内には大沼・小沼・覚満淵があり、中腹にはパノラマ展望台があります。
山岳信仰の対象でもあり、関東一円に約300社の赤城神社が分布しています。
なお、山中の発掘跡を見学できるかどうかについては、公表された案内を確認できませんでした。
私有地や山林が含まれるため、現地へ行く場合は土地の所有者・管理者の指示に従ってください。
よくある質問
徳川埋蔵金は赤城山のどこにあるとされていますか
津久田原・長井小川田・芳ヶ沢・双永寺・年丸橋など、赤城山のなかでも説が分かれています。
群馬県昭和村の長者久保を挙げる説もあります。
地図で場所を特定できますか
できません。
赤城山は単体の峰ではなく5市町村にまたがる山域の総称で、裾野の径だけで約25kmあります。
「赤城山」という指定は、地図上の一点を意味しません。
なぜ赤城山だと言われるようになったのですか
幕府の勘定奉行だった小栗忠順が群馬県内へ隠遁したこと、「利根川を遡った船から赤城山中へ何かを運び込むのを見た」という証言が出たことがきっかけです。
いずれも一次史料ではなく、当時の流言と証言に基づきます。
掘ってもいいのですか
土地には所有者がいます。
また、仮に見つかった場合は文化財保護法の対象になり、発見者は文化庁長官へ報告する義務を負います。
なぜ100年以上見つからないのですか
「そもそも無かった」という説がもっとも単純な説明です。
探索範囲の広さも大きな理由になっています。
群馬県内では、この伝説にちなんだ土産物も売られています。
→ 徳川埋蔵金のポチ袋・お菓子はどこで売ってる?取扱店まとめ
1999年の発掘ポイントはほぼ日刊イトイ新聞に転載された番組企画書によります(2026年8月25日確認)。