小栗上野介忠順終焉の地は、群馬県高崎市倉渕町——旧・倉渕村の権田です。
斬られたのは、東善寺から烏川へ下った水沼の河原でした。

小栗がこの村にいたのは、慶応4年(1868年)3月1日から閏4月6日までです。
新暦に直すと1868年3月24日から5月27日、つまり64日にあたります。
東善寺の公式サイトが「最後の64日間を過ごした寺」と書いているのは、この数え方です。
到着した日と斬られた日の両方を数えれば65日になるので、64日と65日はどちらも間違いではなく、数え方の違いです。

→ 小栗忠順ゆかりの地マップ|群馬と横須賀の全スポット

なぜ権田村だったのか

権田村は、小栗家が代々治めてきた領地でした。
縁ができたのは宝永元年(1704年)に権田村が小栗家の知行地になってからで、小栗上野介は12代目にあたります。160年以上にわたる領主と村の関係がありました。

慶応4年1月15日、小栗は江戸城で御役御免を申し渡されます。
その13日後の1月28日に「上野国群馬郡権田村への土着願書」を提出しました。

この時期、旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られてアメリカへの亡命を勧められています。
小栗はこれを断り、「しばらく上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば頼む」と伝えました。
2月末には彰義隊の隊長にも推されましたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない」として断っています。

江戸から権田までの4日間

慶応4年2月28日(新暦3月21日)の朝、小栗の一行は江戸を出ました。

旧暦 新暦 その日の行程
2月28日 3月21日 朝5時ごろ江戸を出発。大宮の普門院に参拝し、夕方に桶川宿へ
2月29日 3月22日 桶川を朝7時に出発。吹上で昼食、夕方に深谷宿へ
2月30日 3月23日 朝7時に出発。新町で昼食、夕方4時に高崎宿へ
3月1日 3月24日 朝8時に高崎を出発。室田で昼食、夕方4時に権田村の東善寺へ到着

丸4日かけて、江戸から権田村まで歩いています。
いま高崎駅から東善寺までタクシーで約50分の距離が、当時は高崎宿から半日でした。

権田村で何が起きたか

到着から3日後、寺が囲まれる

3月4日(新暦3月27日)、2千人とも言われる世直し勢が東善寺を包囲しました。
小栗の側は鉄砲などでこれを退けています。

この一件が、あとで効いてきます。
撃退したことが反響を呼び、「小栗は多数の武器を持っている」という噂になって広まりました。
捕縛の理由として挙げられたのは、大砲2門・小銃20挺の所持と、農兵を訓練していたという疑いです。

※イラストと会話は、このサイトの案内役として人物の姿を借りたものです。実際の発言ではありません。

小栗道子

小栗道子

寺を囲まれて追い返したことが、のちの咎になったのですか。

小栗忠順

小栗忠順

二千人が押し寄せてきたのを鉄砲で退けた。それが評判になって、小栗は武器を溜め込んでいるという噂に変わった。捕らえる側が挙げたのは、大砲二門と小銃二十挺、それに農兵を訓練していたという疑いだ。村を守った一件が、そのまま咎になったのだよ。

総督府に出頭しなかった

3月8日(新暦3月31日)、東山道総督府を迎えるため、高崎藩主と小幡藩主が常磐町まで出迎えました。
小栗は石上寺の本営に出頭せず、勤王の意を表明しませんでした。
これが反逆の嫌疑を受ける直接のきっかけになります。

村での暮らしは静かだった

当時の村人の記録に残っているのは、まったく別の姿です。
用水路を整備し、塾を開いていたというもので、農兵の訓練をしていた様子は見られません。

観音山に田畑と用水路を開き、屋敷の普請も進めていました。この屋敷の普請が「陣屋を厳重に構えている」とみなされ、追討の口実になります。
屋敷は完成しないまま終わり、いまも礎石が残っています。

閏4月4日から6日まで

日付 起きたこと
閏4月4日 東山道軍の命を受けた高崎藩・安中藩・吉井藩の兵が東善寺で小栗を捕縛
閏4月6日 朝11時 取り調べもされないまま、烏川の水沼河原で斬首。享年42
閏4月7日 養子の又一(忠道)が高崎城下で斬首。享年21

斬られたのは小栗ひとりではありません。
家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎が同じ場で処刑されています。順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったと伝えられます。

大勢の村人が見守るなか、家臣が改めて無罪を主張すると、小栗は「お静かに」と言い、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭したと伝わります。
言い残すことを問われて答えたのは、「母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子には寛典を願いたい」でした。

助命の沙汰があったが、届いたのは斬首の翌日だったという説もあります。
鎮撫総督本営から出ていた、というものですが、確定した話ではありません。

捕縛の理由についても、武器の所持や農兵訓練を挙げる説、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠したという説(徳川埋蔵金説)がありますが、いずれも裏づけとなる根拠は現在まで出てきていません。

→ 小栗忠順と徳川埋蔵金の関係|噂が処刑を早めた理由

逃がされた家族はどうなったか

斬られる直前、小栗は母のくに子、妻の道子、養女の鉞子を、家臣と村民に託して脱出させています。
頼ったのは、かねて面識があった会津藩の横山常守でした。

道子は身重でした。善光寺参りに身を扮し、悪路越えの山道を逃げています。
一行は閏4月29日に会津へ到着し、松平容保の計らいで会津藩の野戦病院に収容されました。
6月10日、道子は女児を出産します。国子と名づけられました。

小栗道子

小栗道子

善光寺参りの姿に身を扮して、悪路の山を越えました。会津へ着いたのが閏四月二十九日、女の子が生まれたのが六月十日でございます。

小栗忠順

小栗忠順

最後に言い残すことを問われて、わしが頼んだのは婦女子の助命だけだ。母と、そなたと、鉞子。それだけでよかった。

→ 小栗忠順の妻と子孫|一族はその後どうなったのか

いま権田に残っているもの

史跡・施設 住所 料金
東善寺 群馬県高崎市倉渕町権田169 大人200円/高校生100円/中学生以下無料(墓参だけなら無料)
顕彰慰霊碑 高崎市倉渕町権田 無料
観音山小栗邸跡 高崎市倉渕町権田3584 無料
姉妹観音 高崎市倉渕町岩氷19-1付近 無料

東善寺の公式サイトは、墓について「『見る』のではなく『お参り』してください」と書いています。
ここは観光施設ではなく、いまも法要が行われている寺です。

埋蔵金がらみの問い合わせは一切お断りしているとも明記されています。
訪ねるときに、その話題を持ち込まないのが礼儀になります。

→ 東善寺へのアクセスと見どころ|小栗上野介の墓と遺品館

→ 高崎・群馬の小栗忠順ゆかりの地|史跡めぐりガイド

行き方と注意

JR高崎駅から権田行きの直通バスはありません。室田で乗り換えます。
土曜・日曜は高崎駅から権田行きが午前中になく、タクシーなら約50分です。
周辺にコンビニも飲食店もないので、飲み物と食べ物は先に用意してください。

→ ゆかりの地めぐりに便利な宿|高崎・横須賀の周辺ホテル

よくある質問

小栗上野介忠順終焉の地はどこですか

群馬県高崎市倉渕町、烏川の水沼の河原です。高崎市が「顕彰慰霊碑」として案内しており、碑には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。

権田村はいまの何市ですか

群馬県高崎市倉渕町権田です。旧・倉渕村にあたります。

小栗が権田にいたのは何日間ですか

到着が1868年3月24日、斬首が5月27日なので64日です。両端を数えれば65日になります。東善寺公式は「最後の64日間」と書いています。

なぜ斬られたのですか

取り調べは行われていません。武器の所持と農兵訓練を理由とする説、徳川埋蔵金の隠匿を理由とする説がありますが、どちらも裏づけは出ていません。

権田村へ移った理由は何ですか

そこが小栗家の代々の知行地だったからです。御役御免のあと、みずから土着願書を出して移っています。


日付と経緯・滞在日数・拝観の条件は東善寺公式サイト、史跡の所在地は高崎市公式ホームページによります(2026年8月25日確認)。
新暦との対応は、記事中の旧暦の日付に併記されている換算にもとづきます。

情報の誤りを報告